第1回講義 ユダヤ的特質
第1回講義
ユダヤ的特質
ナザレ研修会第一回 2012年10月6日 ナザレ修女会於
小林 進
これから暫くこのナザレ修道院をお借りして、「ユダヤ的特質」というようなテーマでお話をすることになります。しかし、これに先立って現在の気持ちをいくらか正直に申し上げておくと、この「ユダヤ的特質という」テーマを掲げる事には幾らか躊躇があります。というのも、そもそもわたしが当初考えていた或る控えめなテーマというのがあって、それを掲げて研修会をしようと遠藤徹先生に申し上げたのですが、後日それでは意味が通りにくいと言われ、その場凌ぎ、泥縄式に考え付いたのがこの「ユダヤ的特質」というテーマで、それも後から考えれば、遠藤先生に誘導されて心ならずも自分で言ってしまったもので、熟慮した上でのテーマではなく、それが故に自分の中である種の躊躇があるからです。
しかし考えようによっては、この躊躇するということには理由があると同時に、その理由をいくらかひも解いてゆくと、面白い問題が潜んでおり、そのあたりを糸口としてこれからの勉強をすることも面白いかなと思う次第です。しかも、お話していけば明らかになるのですが、わたしにも新しい学びの機会が与えられるように思います。
「特質」(characteristics)という言葉は時として曖昧な使い方をされます。通常、特質という言葉は、対象となるある何かが際立っていて、しかもそれが纏まった性質や性格を供えている、というような事柄に向けられます。しかし、その何か際立ったものが、民族であれ、その行動であれ、文学であれ、歴史であれ、時間と空間を通して一貫して貫いているかと言うと、必ずしもそうではない。特質と思われる対象を探求していくと、そうしたものとは異なって、その対極や中間体を形成するようなものが少なからず幾つかあって(対照的contrastive、或いは対称的symmetrical)、そういう点を考慮すると、特質という言葉で扱う対象の実態というのはなかなかつかみ難く、むしろ逆に「特質」なるものは実は「多様さ」にあるということが少なくない訳です。ですから、「特質」という問題にはそれに添うように多様な「動態」(dynamics)というものがあることを最初に意識しておきたいと思う次第です(普遍、普遍史)。
次に、「ユダヤ的」という表現があります。少し冷静になって考えてみると、この言葉は多少とも厄介な歴史を抱えていて、「ユダヤ的」とわれわれが言う際にどういう意味でこの言葉を使い、また使い分けねばならないか、ある種の用心深さが必要となるからです。今それを歴史的に素描すると次のようになる。
1.イスラエル石碑(Israel stele、紀元前1230年)。イスラエルという名称が歴史に初めて現れるのは、これまでの考古学的成果に従えば、後期青銅器時代の最後にあたるエジプト第19王朝(新王国)のファラオ、メルエンプタ王(前1235-1223年)の戦勝記念碑で、これは学問的に「イスラエル石碑」と呼ばれており、この中でイスラエルは、政治的=社会的にまとまったある集団として、しかもエジプトに敵対する集団として言及される。この石碑から抜粋したものを紹介すると、次のように語られます(James B. Pritchard, Ancient Near EasternText Relating To The Old Testament, pp.376-78より)。
The princes are prostrate, saying: “Mercy” 君公らはひれ伏し、「ご慈悲を」と口にする
Not one raises his head among the Nine Bows. 九つの弓の誰一人、頭を上げる者なし
Desolation is for Tehenu;Hatti is pacified; リビアは荒廃し、ヒッタイトは鎮圧される
Plundered is the Canaan with every evil; カナンは略奪され、あらゆる不幸が襲う
Carried off is Ashkelon;seized upon is Gezer アシュケロンは掠められ、ゲゼルは捕えられる
Yanoam is made as that which does not exist; ヤノアムは最早立ち行かず
Isarel is laid waste, his seed is not; イスラエルは衰え、その子孫はいない
Hurru is become a widow for Egypt! フルは寡婦となって、エジプトに(すがる)
All land together, they are pacified ; 地はことごとく同時に、制圧され
Everyone who was restless, he has been bound 不満を持っていた者、束縛されていた者も
by the King of Upper and Lower Egypt: Ba-en-Re Meri-上エジプトと下エジプトの王、バーエンーレ
Amon; the Son of :Re: Mer-ne-Ptah Hotep-hir-Maat, メリーアモン、レの息子、メルエンプタ、ホテプ・ヒル・マーgiven life like Re every day. トレのように日ごとに命を与えらる者
註
*Mercyと訳出される用語にはカナン語のshalamが用いられており、「平和」とも訳出し得る
*Nine Bows九つの弓とは、エジプトで古くから使用されてきた仮想敵国に関する常套句で、エジプトの九神(アトゥム、シュー、テフヌートゥ、ゲブ、ヌートゥ、オシリス、イシス、セトゥ、ネフティース)) に対応する。アトゥムはヘリオポリスの首神で、彼によって混沌の海から最初の神々(八神)が生成される(前24世紀、第6王朝のメルーネ―レとペピⅡ世のピラミッドから)。祭儀的、神話的観念か
*Tehenuテヘヌはリビアの諸部族の一つ
*Hattiハティはヒッタイトの意
*Yanoamヤノアムはアラム(シリア)の都市
*Reレは、エジプト神話の創造神Atunアトンの別の現れを示す名
*Mer-ne-Ptahメルネプタの名を構成するプタPtahはメンフィスの首神
*イスラエルは民族を指すのか、或いは限定的な土地を指すのかという議論, 未決
*Hurruはティグリス川上流の地域で、現在はトルコ領の東部域。
多くの旧約学者はこの石碑のイスラエルと旧約聖書のイスラエルとをただちに同定することに躊躇する。なぜなら旧約聖書のイスラエルは文学の中で描かれるイスラエルであって、旧約聖書を単純に歴史文書と見なすことを嫌うからである(ミニマミストの立場→マキシミスト)。しかし、イスラエルというグループが前13世紀後半にカナン(パレスチナ)の地に存在したことを証言する石碑が、旧約聖書のイスラエルを理解する際の重要な歴史的指標であると見ることには反対しない。彼らがどのようにして遅くとも前13世紀後半にイスラエルという集団を構成するようになったかについては、この後期青銅器時代にエジプトのカナン(パレスチナ)における支配力は総体的に退潮期に入り(その理由の大きなものは海洋民族の侵攻で、ペリシテ人はラメセス3世の時代(前1198-1166)になってよく知られる)、従来のように多くの町(sites要塞)を保持することが出来なくなり、必然的に少ない特定の町だけを残すこととなった。(その結果様々な理由でその放棄された土地から追われた人々が)エフライム山地に小さな定住地を作って行ったことが考古学的に良く知られており、この集団が「イスラエル」として、エジプトによるカナンの都市政治形態に対立したと考えられている。彼らが同時にエジプトによってハピル(Hapiru、Habiru、)と見なされたことは十分な可能性がある。
このイスラエルの中にユダと呼ばれるグループが入っていたかどうかという問題は殆ど不可能な議論であるが、後のユダに振り向けられる南方地域を考慮すると、ユダが歴史に登場するのはイスラエルの後ということになる。
2..紀元前721年のアッシリアによるイスラエル捕囚まで。イスラエル碑文で言及されるイスラエルが、旧約聖書に描かれるイスラエルと蓋然的な連続性或いは関連性を持っていたことは控えめに肯定してよいと思う。なぜなら、前者が言及するのは明らかにカナンの地であって、後の申命記史家(捕囚期か?バビロンの地か?)が描くイスラエルの初期王国時代(サウロ、サムエル、ダビデ)の場所はエフライムの山地が舞台であり、自らもイスラエルという名称を集団のアイデンティティーとしていたことは明らかであるから。
興味深いのは、サムエル記の記述の中に「へブル人」と呼ばれる人々が或る纏まった集団として、イスラエルとは必ずしも同じではない独自の集団を構成していたという記述である(サム上13章3節、7節、19節、14章11節、21節、エレ34章8-16節)(ハピルとの関連)。
ユダ(イェフダー)がイスラエルの構成要員の一つであることは、創世記の中で族長ヤコブから出た12部族(支族)の一人としてユダが言及されるところから推測されるが、ソロモンの子レハベアムの時代にユダ族とベニヤミン族を除く方北10部族がダビデ王朝から離反している(王上11章26節―12章)。これにより、北イスラエルと南ユダの二つの王国に分かれる。
前721年以前に北王国で活動したホセアは北王国をしばしばイスラエル(33回)とエフライム(38回)の二つの名で呼ぶ。ユダ(9回)も少なからず言及される。「ユダ」(1章1節、5章5節、5章10節、13節、6章4節、11節、8章14節、10章11節、12章3節)、「イスラエル」(1章1節、5節、4章15節、16節、5章3節[2回]、5章5節[2回]、9節、6章10節、7章1節、10節、8章1節、3節、6節、8節、14節、9章1節、7節、10節、10章1節、6節、9節、15節、11章1節、8節、12章1節、13節、14節、13章1節、9節、14章2節、6節)、「イスラエルの人々」(2章1節、2節、3章1節、4節、5節、4章1節)、「ユダの人々」(2章2節)、「ユダの家」(5章12節、14節)、「エフライム」(4章17節、5章3節[2度]、5章5節、9節、11節、12節、13節[2回]、14節、6章4節、10節、7章1節、8節[2回]、11節、8章9節、11節、9章3節、8節、11節、13節[2回]、16節、10章6節、11節[2回]、11章3節、8節、9節、12章1節、2節、9節、15節、13章1節、12節、15節、14章9節)、「イスラエルの家」(5章1節、6章10節)、「ヤコブ」(10章11節、12章4節、13節)。
北王国で活動した同時代人アモス。「イスラエル」(1章1節、2章6節、3章14節、4章12節[2回]、7章8節、10節、11節、16節、17節、8章2節、9章14節)「イスラエルの人々」(2章11節、3章1節、3章12節、4章5節、9章7節)、「イスラエルの家」(5章1節、3節、4節、5章25節、6章1節、6章14節、7章10節)、「ヨセフの家」(5章6節)、「ヨセフの残りの者」(5章15節)、「ヨセフの破滅」(6章7節)、「ユダ」(2章4節)、「ユダの国」(7章12節)、「イサクの塚」(7章9節)、「イサクの家」(7章16節)、「ヤコブ」(7章2節、5節)、「ヤコブの家」(9章8節)
同時代人イザヤ。イザヤの関心は主としてユダとエルサレムに向けられたが(1章1節、2章1節)、彼にとって北イスラエルに対する関心が欠けていた訳ではなく(5章7節、9章7節-10章23節)、神について「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバオース、1章9節、2章12節、3章1節等)、という名称の他に、「イスラエルの聖なる方」(1章4節、5章24節10章17節等)という言葉を用いる。つまり「ユダの神」という表現はなく、あくまで「イスラエルの神」というのが南ユダで活動したイザヤにとってもある種当然のことであった。
少なくと紀元前721年以降はイスラエル、或いはエフライムと呼ばれていた北方10部族は歴史の中で姿を消していき、南のユダ王国だけが残る。
同時代人ミカにとっても、北イスラエルは「イスラエル」(1章5節、14節、15節、)、「イスラエルの家」(3章1節、9節等)、「ヤコブ」(1章5節、2章12節、3章1節等)、「ヤコブの家」(2章7節、3章9節等)である。しかし、ミカには「エフライム」という呼び方は見られない。南王国については当然のことながら「ユダ」(1章5節、9節等)と呼ぶ。
3.ユダのバビロン捕囚(前597年、587年)前について。バビロニアによるユダの捕囚は、イスラエル=ユダの歴史にとって非常に重要である。先に紀元前721年のアッシリアによるイスラエル捕囚までの時代に活動した四人(四つの)の預言者(預言書)が北王国をどのように呼んだかを見た。それでは北王国のイスラエルがアッシリアの捕囚になって以後、ユダのバビロン捕囚まで、北王国はどのように呼ばれたのか。
前7世紀後半から捕囚(前587年)までエルサレムで活動したエレミヤは「イスラエル」(2章3節、14節)、「ヤコブの家」(2章4節、)、「イスラエルの家」(2章4節)等を使うが、「イスラエル」や「イスラエルの家」、「ヤコブの家」を北の地域(もはや北王国はなく、ヨシア王による北の併合が歴史的な背景となっている可能性が或る)を指して使っているのが明らかな場合と(3章11節、5章11節等)、ユダを含めてたとえば「イスラエルの家」(5章15節)を使っている例が見られる。これは、紀元前721年のアッシリアによる記王国の捕囚後に、それまでもっぱら北王国を指して用いられていた用語が、徐々にユダにも適用されていったプロセスを物語る。
4.ユダのバビロン捕囚期(前597年以後)。この時代区画に入ってくるのがまずエゼキエル書であり、次いで第二イザヤ(イザ40-55章)である。エゼキエルは前597年の第一次バビロン捕囚によってバビロンで生活した人物で、彼の捕囚中にエルサレムが崩壊し、第二次バビロン捕囚が行われた。彼の活動期間を示す指標として、1章2節の「第五年」は紀元前593年であり、この年が彼の預言活動の起点であり、40章1節の「捕囚になってから25年、都が破壊されてから14年目」、すなわち前573年が一応の帰着点と考える事が出来る。エゼキエルはバビロンの捕囚民に対してもエルサレムに残った民にも「イスラエルの家」とい言葉を充てている(37章15節以下を朗読)。第二イザヤに至ってはバビロンの捕囚民は「ヤコブ」であり「イスラエル」である(40章27節、41章8節、14節、42章24節、43章1節等)。また第二イザヤにとって、神は「イスラエルの聖なる神」(41章14節、16節、20節、43章3節、14節等)、「イスラエルの神」(41章17節、45章15節等)であり、神を「聖」と形容する神学的な観念はイザヤに発すると言われているが、それに加えて神はイスラエルという言葉を抜きに呼ぶことは出来ないまでになっている。エゼキエルにもこの表現が3回見られ(8章4節、9章3節、11章22節)、また神を聖なるものと形容する表現「イスラエルの中の聖なる者」(39章7節)も見られるが、第二イザヤの頻度は抜きんでている。因みに「イスラエルの神」という表現はエレミヤ書に27回見られるが、そのうちの25回は「散文部分」の中に現われ、残る2回は「諸国民への託宣」と呼ばれる文学ジャンルの中の「モアブへの託宣」(48章1節)と「バビロンへの託宣」(51章33節)に見られるが、これらは時代的にはエレミヤ以後の作品である。
5.バビロン捕囚によってユダはバビロンの行政管区の一つになり、その後約50年を経てペルシャ王キュロスのバビロン征服によりバビロンから捕囚民の帰還が始まり(前538/37年)、次いで紀元前522/21年に神殿再建に着手し、所謂第二神殿時代(前522/1-後70年)と呼ばれる期間が始まる。この時代に生きた人々の民族呼称として、またはその時代に関わる地域呼称としてやがて定着してくるのが「ユダヤ」とか「ユダヤ人」という表現である。勿論その間に、ペルシャ時代に書かれたユディト書のように、エルサレムの住民をも「イスラエル」という呼び名をもって執筆する作品もあるが、場合によってはイスラエルに代わって、或いはイスラエルと並行して、徐々に「ユダ」ないしは「ユダヤ人」という呼称が定着してくる。紀元前4世紀から3世紀(ペルシャ帝国→アレキサンダー大王)の作品とされる「エステル記(ギリシャ語)」には、物語の舞台設定として、「ユダヤ人」(Ιουδαιοs)と共に「イスラエル」が同時に用いられる。!
6.こうしてイスラエルという名前とユダという名前は微妙な関係の中で用いられてきたのであり、少なくとも「ユダヤ」、「ユダヤ人」、「ユダヤ人の」、「ユダヤ的」という表現は、現在われわれが用いるような意味では、少なくともその契機をバビロン捕囚以後とするのであり、それによって、「イスラエル」という用語との微妙な関係の中で用いられてきたことを記憶しておく必要がある。「イスラエル共和国」(「ユダ共和国)ではない)
マックス・ヴェーバーが『古代ユダヤ教』(1917-19年)(『世界宗教の経済倫理』という本の中で「儒教と道教」(1926年)、「インド教と仏教」(1916-17年)に次ぐ最後の論文として)という本を書いているが、この本の書名Das Antike Judentumという題が、ここまで論じてきた「ユダヤ」という用語の問題を凝縮している。Judentumの「ユダヤ総体」、「ユダヤ教」という意味。他方で「ユダヤ教」(Judaisums)という表現。
かくして、小林懸念の「躊躇」から第一回のナザレ研修会が始まったが、これが次会の話しに繋がってゆくことになればよいのだが、どうなることやら。