第1回講演 キリスト教とイスラーム…セム系三宗教の比較
第1回講演
2012年11月17日(土) 塩尻和子
キリスト教とイスラーム…セム系三宗教の比較
三宗教の関連性
シカゴ大学の高名な宗教学者であったW・C・スミス博士がキリスト教とイスラームを対比して次のようなチャートを作成したことはよく知られている。
クルアーン……イエス・キリスト
ハディース……聖書
ムハンマド……パウロ
イスラームの聖典クルアーンにイエス・キリストが対応するのは、どちらにも「神の言葉」という深遠な意味があるからである。クルアーンは一語一句紛れもない神の言葉を,啓示されたままに書きとめたものであるとされる。いっぽうのイエスはキリスト教の創始者であると同時に「神のロゴス」として神の言葉が地上に顕現したものと考えられている。ハディースは預言者ムハンマドの言行録であり、いうなれば彼の生涯の記録である。創唱者の一生の記録としては、聖書、とくに新約聖書の最初の四福音書に対応する。最後の最大の預言者であるムハンマドはキリスト教ではパウロと対応される。イスラームの創始者であるムハンマドが、パウロと対比されるのは、それぞれの宗教を民族の枠を超えて普遍的な世界宗教へと拓く契機を作ったからである。それぞれの宗教の創唱者としての立場を示すとすれば、ムハンマドにはやはりイエス・キリストが対応するであろう。しかし、両方の宗教とも、真の意味の創始者は「神」であると考えるなら、スミスの対比は意義深い指摘である。
次ページにセム系3宗教の対比を簡単な表を示す。
この表の「聖典」の個所からわかることは、ユダヤ教のモーセの五書からはじまって聖典の量と種類が次第に増えていっていることである。イスラームではクルアーンのほかにもユダヤ教やキリスト教の聖典が認められているが、これは、先行する聖典があった上に最後の最高の聖典としてクルアーンが啓示されたと考えられるからである。
イスラームでは,こうして聖典を共有するという立場から,ユダヤ教徒もキリスト教徒も,「啓典の民」と呼ばれたが、ユダヤ教・キリスト教徒の側からは、イスラームを同一の伝統上にある宗教として理解することは,これまで長い歴史を通じて、なかったのである。イスラーム政権の保護のもとにユダヤ教徒とキリスト教徒が平和的に共存した時代が長く続いたことは歴史的な事実ではあっても、アブラハムを共通の祖とし、啓示を共有する3宗教間の真の意味の対話は行なわれてはこなかった。
セム系三宗教の対照表
宗教名
ユダヤ教
キリスト教
イスラーム
創唱者
(モーセ)
(民族宗教の一種)
イエス
ムハンマド
信仰対象
神(ヤハウェ)
神
イエス・キリスト
(聖霊)
神
(アッラーとはthe God のことで神の名ではない)
創唱者の性質
預言者
(人間)
神の子、救い主
(崇拝の対象)
最後の預言者
(人間)
聖典
旧約聖書
おもに律法(モーセの五書)
聖書
(新旧約聖書〉
クルアーン(+ムハンマドの言行録、ハディース)
旧約聖書のモーセの五書,ダビデの詩篇,イエスの福音書(新約聖書の最初の4書)
信徒
イスラエルの民
(選民、ユダヤ人)
人類
(普遍的)
人類
(普遍的)
行為規範の源
タルムード
(精神的規範)
シャリーア(イスラーム法)
教団組織・聖職者階級
宗教的指導者としてラビ
教会、教団
聖職者として教皇、司祭、神父
(プロテスタントでは牧師)
教団組織も聖職者階級も原則としてない。
(イマームは礼拝の指導者、ウラマーはイスラーム法学者、時には宗教的指導者の役割も持つ)
理想的な社会との関係
政教一致の契機をもつ(約束の土地)
政教分離
(霊肉の分離)
政教一致(信仰生活と社会生活の一致)
聖日
(安息日)
シャバト(金曜日の日没から土曜日の日没まで、一切の労働をしない。)
日曜日
金曜日(正式には木曜日の日没から金曜日の日没まで)
合同礼拝の日
暦
閏年を設けた大陰暦を使用、農耕に適している。
キリスト誕生を元年とする太陽暦、グレゴリオ暦ともいう。西暦。
ヒジュラ暦と呼ばれる。(純粋な太陰暦、太陽暦より1年で約11日少ない。四季に一致しない。)
主な食物規定
コーシェル(カシュルート)という厳格な規定がある。豚肉も食べない。
原則として食物規定はない。
豚肉、酒類、規定に則って処理されていない食肉などの禁止規定がある。
宗教間対話へむけて
二〇〇〇年に前ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、歴史に残る大改革を成し遂げたいという使命感を持ち、ユダヤ教やイスラームという「共通の祖としてのアブラハム」を戴く二宗教との関係改善をめざしていた。教皇の悲願は西暦二〇〇〇年を期にエルサレムを訪問して、三宗教の和解を実現させたいというものであったと伝えられる。このような前ローマ教皇の積極姿勢の目的は、あくまでも新たな世紀に向けたカトリックの改革であり、そのための「三宗教の和解」であることは言うまでもない。しかし、九億から一〇億人という信徒を統率するばかりでなく、聖職者の頂点に立つ聖人として信徒の崇敬を一身にあびる教皇の言動は世界に大きな影響を与える。そういう意味では新世紀を目指した宗教対話の試みは、ユダヤ教だけでなく、イスラームにとっても、大いに意義があると考えられていた。
しかし、ヨハネ・パウロ二世の献身的な和解への取り組みはバチカン内部では批判的に見られていたことも事実である。新ローマ教皇ベネディクト一六世が二〇〇六年九月一二日、母国ドイツのレーゲンスブルク大学での講演の際に、一三九一年にビザンティン皇帝マヌエル二世の「ムハンマドが新しく行なったことは、邪悪と冷酷しか見つからないであろう」という発言を引用して暴力を非難した際に、この講演が暗にイスラームのジハードを非難したものであると受け止められて、イスラーム教徒の間で大きな問題となった。9月14日になってバチカンは「教皇は宗教的な動機による暴力を否定しただけであり、イスラームやジハードの思想にまで踏み込んだ発言ではない」という声明を発表して事態の沈静化に努めたが、このニュースを、バチカンの強硬派の復活を示唆するものとして受け止めた人も多いことであろう。
そもそもイスラームにおいては、セム系三宗教を「啓典の民」と認め、ユダヤ教徒やキリスト教徒を保護民(ズィンミー)として、一定の条件のもとで信教の自由を保証してきた。三宗教の中では、とくにイスラームは、その強固な宗教理念という印象とは裏腹に、歴史を通じて異文化や異教に対してはきわめて柔軟で包容力のある対応を見せてきたのである。歴史の過程で異文化や異教だけでなく、キリスト教の異端を厳しく排斥し迫害を加えてきたのはキリスト教のほうである。「愛の宗教」を標榜するキリスト教が、ユダヤ教に対してはいうまでもなく、イスラームに対しても、つねに独善的で攻撃的な排除の論理を駆使してきたのは、まぎれもなく歴史的な事実である。
カトリックの総本山の頂点から、ヨハネ・パウロ二世によって宗教和解の兆しが見えてきたことは、遅まきながらも歓迎すべきことである。今日の人類が互いの信仰や信条の相違を理由にして、流血の惨事を繰り返すことはもはや許されないからである。しかし、この兆しは、二〇〇一年九月一一日のアメリカの同時多発テロと、その後のアフガン攻撃、さらには二〇〇三年三月に始まったイラク戦争へと続く「テロとの戦い」を旗印にして、逆行しているように思われる。
このような時代に、宗教対話の必要性はますます急務となっている。私たちはセム系三宗教の相互関係を学びながら、平和的な対話への可能性を探る試みを行なう必要がある。もとより、宗教対話に関してはさまざまな立場や見解があることは当然であり、そのような試みは試行錯誤の積み重ねを覚悟しなくてはならないであろう。
マッカ巡礼
イスラーム教徒にとってはマッカ巡礼に出かけることは、信徒としての基本的な義務でもあり、一生の願いでもある。ヒジュラ暦の一二月、巡礼月七日からの四、五日間に聖都マッカを中心にしてさまざまな行事が行なわれる。新聞などの報道によると毎年二〇〇万人を超える信者が世界中から集結する。決められた聖域のなかで大勢の群集が一定の行事や儀礼を行なうために、毎年なんらかの事故がおきるが、信者にとっては憧れの聖地で神に召されるのは本望とみなされるのか、巡礼中の事故に対して聖地を管理するサウディアラビア政府から補償などが設定されることは、ほとんどないと聞く。
人種も国籍も異なる信者たちがイフラームという白い巡礼服を身にまとって、カアバ神殿をいっせいに回る光景は、その人数の莫大さと宗教的情熱による熱気から、イスラームに独特の宗教伝統であると思われがちである。たしかに、マッカ巡礼に関わる行事や儀礼の多くは先行するセム系宗教ではなく、むしろアラビア半島に伝わる習俗などから受け継いだものが多い。たとえば、悪魔の柱に小石を投げつける悪魔祓いの行事や、聖なる黒石を納めたカアバ神殿を左回りに七回巡行(タワーフ)することなどは、イスラーム以前のアラビアの風習でもあった。
石投げの儀式というのは、ヒジュラ暦一二月一〇日に、日の出とともにミナーの谷へ向かい、谷間に設置されている三本の石標のうち、最も大きい石標に七個の小石を投げつける行事である。小石は石標にあたらなくても効果があるといわれているが、一度投げた石は拾ってはならない。この石投げの行事は二度行なうことになっていて、巡礼を終えてイフラームと呼ばれる巡礼服を脱ぎ、犠牲の羊を捧げた後、一一日から一三日までの間にミナーに戻り、ふたたび行なわれる。二度目の石投げは三本の石標の小さい方から順にそれぞれ七個ずつの小石を投げることになっている。
この石標はイブラーヒームとその息子イスマーイールに降りかかった悪魔の誘惑の故事に由来し、その石標に小石を投げることによって悪魔を追い払うことができるといわれている。イブラーヒームとは旧約聖書の創世記にイスラエルの祖として登場するアブラハムのことであり、息子イスマーイールは聖書ではアラブ族の祖となったイシュマエルのことである。石投げの儀式自体はアラビア半島の伝統に従ったものであるが、そこには旧約聖書の伝統も生きているのである。
犠牲祭の由来
さて巡礼行はカアバ聖殿を左回りに七回まわる巡回(タワーフ)から始まるが、その後サファーとマルワという小高い丘の間を小走りで三往復半する。これはイブラーヒームの妻ハージャルがその子イスマーイールのために水を求めて走り回ったという故事に基づいている。ハージャルとは旧約聖書ではアブラハムの妻サラに仕えていたエジプト人の女奴隷ハガルのことである。旧約聖書の創世記によると、サラは自分に子供が生まれなかったので、自分の下女ハガルをアブラハムに与え、イシュマエルが生まれた。ハガルは男児が生まれると、子供のないサラを軽視するようになり、怒ったサラは彼女をアブラハムの家から追放した。しかし、神はハガルに使いを送って母子を慰め、やがて大いなる国民とするという約束を与えた。この国民がアラブ族であるといわれるが、母子が水を求めて砂漠をさまよったのはアブラハムの家を追われた時のことであろう。
幼子イスマーイールが踵で掘り当てたといわれているザムザムの泉はカアバ聖殿の中庭にあり、現在でも聖水が湧き出している。カアバ聖殿のすぐそばにはイブラーヒームの立ち所といわれる場所もあり、石の上にイブラーヒームの足跡が残されている。旧約聖書のアブラハムはイスラエルの民を約束の地カナーンに導いたが、イスラームにおいては、イブラーヒームはカアバ聖殿を創建し、純粋の一神教徒ハニーフとしてイスラームの礎を築いたのである。
巡礼の最終日にあたる一二月一〇日は犠牲祭となり、全世界のムスリムは動物犠牲を捧げて祭礼を祝うが、巡礼者も聖地にあって犠牲を捧げる。一般には羊を屠って犠牲とするが、この行事もイブラーヒームとその子イスマーイールの故事に由来する。
クルアーンによれば(三七章九九節-一〇八節)、イブラーヒームは年老いてから、やさしく思いやりのある男児イスマーイールを授かった。息子が青年になったある日、彼は息子を犠牲として神に捧げる夢を見て、それが神の意志であると悟った。彼がイスマーイールを殺して犠牲に捧げようとした、まさにその時、神はイブラーヒームを制して、「あなたはたしかにあの夢を実践した。本当にわれは、このように正しい行ないをする者に報いる」と告げて、イスマーイールの代わりに羊を犠牲にしてイブラーヒームを祝福した。
同様の物語は旧約聖書の創世記二二章に見られる。創世記ではアブラハムの息子はイシュマエルではなく、正妻サラの産んだイサクになっている。イサクはイスラエル族の祖となり、イシュマエルはアラブ族の祖となったとされるために、クルアーンではイブラーヒームとイスマーイール父子の物語に変更されているのは当然であろう。
イスラーム世界でもっとも重要な祭礼として毎年盛大に祝われる犠牲祭は、このように旧約聖書とクルアーンの双方にまたがる由来を持っている。イブラーヒーム(アブラハム)はイスラームだけでなく、ユダヤ教、キリスト教においても、宗教上の礎であり、最初の一神教徒である。それゆえにこそ、イスラームの神もユダヤ・キリスト教の神も「イブラーヒーム(アブラハム)の神」なのである。
ユダヤ教では、食用の動物を屠るためにはムスリムと同様に頚動脈を切って血を流す方法のみが採用されているが、犠牲祭のような動物犠牲は行なわれていない。いっぽうのキリスト教では多種多様な屠殺方法が許可されている。現在まで、アブラハムとその息子にまつわる犠牲祭を祝っているのは、ムスリムだけということになる。
ヘブロンの悲劇
イスラエルのヘブロンという古い町にアブラハムと彼の一族の墓がある。旧約聖書・創世記二五章にはアブラハムがマクペラの洞窟に葬られたという記述が見られるが、現在でも聖書に記されたとおりにアブラハムとその妻サラ、息子のイサクと妻のリベカ、ヤコブと妻レアという三代の墓だけでなく、ヤコブの息子でエジプトへ連れて行かれて大臣にまで登ったヨセフ(ユースフ)の墓まで保存されている。マクペラの洞窟を覆うように石造りの巨大な建造物が作られ、中にはモスクとシナゴーグが併設されている。つまり、そこは古来、ユダヤ教徒とムスリムとの共通の聖地であり祈りの場でもあった。
ヘブロンはアラビア語では「ハリール」という。ハリールとは「神の友」を意味し、アブラハムの尊称でもある。しかし、ユダヤ教徒にとってもムスリムにとっても聖地であるということは、いずれかの正統性を巡って紛争が起こりやすい地であることをも示している。本来は平和な祈りの場であるべき地は、しばしば流血の惨事の場となる。一九九三年二月には、アメリカから移住してきたユダヤ教徒の過激派が、礼拝中のムスリムに機関銃を乱射し、二九人が死亡、一〇〇人以上が負傷した。犠牲者は、まさに聖なるマクペラの洞窟に捧げられた文字どおりの犠牲となったのである。
ヘブロンの町の一角はユダヤ教過激派の入植地になっていて、パレスティナ人との間で小競り合いが繰り返されている。一九九七年一月には町が分割され、八〇%がパレスティナの管轄区域に編入され、残りの二〇%の地域がイスラエルの支配下に置かれたが、そこには現在も一〇〇〇人近いユダヤ人が住んでいる。不測の事態がいつまた起こるかわからない。
第二バチカン公会議
一九二二年のオスマン帝国の滅亡以降、近代の欧米列強による植民地政策によってムスリムの多くは政治的にも経済的にも被抑圧者となり、キリスト教徒の支配を受ける立場になった。同時に中東やアフリカはキリスト教、とくにプロテスタントによる世界宣教運動の対象地域となり、イスラームは強力な布教活動の波を被ることになった。このような近代の政治的な力関係のもとでは、「対話」はキリスト教支配の浸透を図る手段とみなされたとしても当然のことである。その間、一九四八年のイスラエル共和国の建国やそれに続く中東戦争、パレスティナ問題など、現在にいたるまで中東地域を取り巻く政治情勢はイスラームとキリスト教・ユダヤ教との対立の構図を助長するものでしかなかったからである。国際政治の面から見る「対話」は背後に潜む複雑な力関係を如実に示すものでもある。
前ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世はこのような国際政治の力関係の中で暴力を否定し、三宗教間の和解を目指して積極的な活動を続けていたが、これに先立つ一九六二-六五年の第二バチカン公会議の宣言書には非キリスト教徒への呼びかけがなされている。そこにはムスリムに対しては「カトリック教会は、唯一にして生きて存在し慈悲深く全能であり、天地の創造者であり、人間に語りかける神を奉じるムスリムを敬意をもって見る。彼らは、イスラームの信仰がアブラハムとどのような関わりを持つにしても、彼が喜んで神に従ったように、たとえ隠されていても全精神を傾けて神の予定に従おうとする。彼らはイエスを神として認めようとはしないものの、彼を預言者として尊敬する。彼らは彼の母処女マリアを敬い、敬虔な者の模範とさえなした」(カトリック公文書名)と評価した。そこでは、悲しむべき過去の出来事を忘れ、すべての人々に社会正義と倫理的価値、平和と自由をもたらすために真摯な相互理解と多元主義的な寛容を提唱している。カトリックのこのような呼びかけは高く評価されるべきであろう。
敵意と偏見
よく言われることであるが、日本人にとってイスラームはわかりにくい宗教である。しかし、それは私たちが一般にイスラームについてよく知らないからであり、知らないままに西欧社会による誤解と偏見を通じてイスラームを垣間見ているからでもある。繰り返しになるが、イスラームとキリスト教は同一の伝統上にある兄弟宗教である。どちらもユダヤ教を母胎とし、同じ「神」を崇拝し、同じ系列の聖典を戴き、同一の預言者たちを敬う宗教である。しかし、これほど近い関係にありながら、これほど冷たい関係にあった宗教もないかもしれない。歴史を通じて、一般のキリスト教徒とムスリムが相互に理解し合うということは、実はほとんどなかったのである。私たち日本人がイスラームを知らないように、西欧キリスト教徒もイスラームの真の姿についてほとんど知らないのが実状である。
しかし、イスラームが成立した当初から根強い敵対関係があったわけではない。西欧社会とイスラーム世界との対立が一〇九六年から始まった十字軍運動によって明確になるまでは、一般のキリスト教徒にとってムスリムは宗教上の敵ではなかった。同様にムスリムにとってもキリスト教徒は長い年月、同じ地域に住む隣人でもあり共同体の一員でもあった。十字軍は聖地奪回という目標を掲げてはいたが、宗教的情熱よりも、当時のヨーロッパにおける政治的矛盾と社会的混乱の解決法として、世俗的な目的のために結成されたことは、今日では明らかである。しかし、二〇〇年にわたって展開された十字軍運動は、キリスト教徒にもイスラーム教徒にも、互いに敵意と偏見を植えつけるには十分過ぎるくらいであった。
イスラームの「啓典の民」という保護民システムは近代にいたるまで維持されてきたが、このような共存の歴史は、現代の国際的対立の影に押しやられて、振り返ろうとする人は少ない。現在のイスラーム社会が、キリスト教に対して頑なになっている面があるとしたら、それは宗教教義によるのではなく、ムスリムを取り巻く政治的経済的な矛盾や悪環境によるものである。したがって、この両者の宗教対話を成功させる第一歩として考えられることは、イスラームとキリスト教の歴史を相互に注意深く学ぶことである。なぜなら両者が共有する「セム的な価値」は近代社会の中で否定的に扱われることが多くなっているからである。私には、「セム的な価値」を改めて検討することが、現代の効果的な宗教間対話のために必要ではないかと思われる。
他宗教を理解すること
第二バチカン公会議の宣言文にもあるように、イスラームでは、イエスは神の子としては認められていないが偉大な預言者として敬われているし、イエスの母マリアも敬虔な女性の模範として褒め称えられている。しかし、セム系三宗教の中では最も厳しい神観念をもつイスラームでは、キリスト教の三位一体説(神とイエスと聖霊はたがいに自存する関係性を持ちながら、三つの神ではなく一つの神であるという教義)やイエスの受肉(神の言葉が人間となって、この世に降ったということ)といった基本的な理念を容認することはできない。またキリスト教においては、預言はイエスにおいて最終的に成就されているので、イエス以後に現れたムハンマドを最後の最大の預言者として認めることはできないし、神の言葉であるクルアーンを聖書に代わるものとして戴くこともできない。それぞれの宗教教理の最も基本的な点を同時に認め合うということは不可能である。聖書の精神をもってクルアーンを読むことも、クルアーンの精神をもって聖書を読むこともできないからである。それぞれの信者が自らの信仰理念と価値観に基づいて他方を見るなら、そこには対立しかありえない。逆に二つの宗教の相違点を安易に認めてしまうなら、それはシンクレティズム(重層的宗教)に陥ることになる。つまり、双方の教義を重層的に受け入れて、その結果、どちらともつかない、新しい融合的な宗教を作り上げることになってしまうからである。
宗教対話に不可欠なことは、双方の違いを強調して相互に排斥し合うことでもなく、まして相違点を混ぜ合わせて消してしまうことではなく、違いを違いとして深く学び理解することである。イスラームとユダヤ教、キリスト教、それぞれの宗教の共通性を理解し独
自性を尊重しつつ、互いの意思の自由を認め合う寛容の精神を持って学ぶことが重要である。
私たちが他宗教を理解するには、それぞれの宗教理念の独自性を尊重し、信者の意思の自由をなによりも重要視しなければならない。たがいを理解し合う意図を持って学ぶならば、対話は可能となるであろう。他方を知ることは、逆に自らをより良く知ることでもある。西欧キリスト教社会においては、イスラームへ対話を呼びかける一方で、一般の人々がたがいによく知り合う機会を増やすべきである。その手始めとしてヨーロッパはイスラーム文明に多くを負っていることを、偏見なく学ぶことが大切であろう。
イスラームの側から見れば、キリスト教徒と平和的共存を遂行してきたのは自分たちのほうであるのに、キリスト教徒側が十字軍遠征などによってそれを破壊し、敵対関係を作り上げ、さらには近年、政治的経済的にも優位にある立場を利用してキリスト教伝導によって改宗を迫ることは許せない、という怒りがあることも事実である。それでも、ムスリムは近代社会がヨーロッパ文明に大きな影響を受けていることを真摯に受け止めて、対話に応じることが重要である。宗教対話には当の宗教だけでなく、それらを取り巻く国際政治の動向が大きな影響力を持っている。宗教教義だけでも困難な多くの問題を抱えているうえに、複雑な国際政治の矛盾をもろに受けやすい。しかし、それだからこそ、政治的混乱を超えた対話が求められるのである。
宗教的理想をもう一度
現在の世界で、さまざまな形の暴力の犠牲になるのは圧倒的にムスリムが多い。俯瞰的に世界の紛争を眺めてみると、イスラームはむしろ被害者の側にいる。しかし、アメリカや日本のメディアによる一面的な報道も手伝って、今日、イスラームの宗教思想とムスリムは、単純に暴力やテロと結びつけて考えられる。
しかし、ここで注意しなければならない問題は、「命の価値」の相違である。イスラーム世界の人命には、「人の命」としての尊厳すら与えられていないという事実である。イラク戦争においては開戦以降、正確な数は数えられていないが、イラク側の死者数は六五万人を越えるという統計もある。イラクだけでなくアフガニスタンでも多くの市民が、女性や子供が命を絶たれているが、彼らの命は世界が悼む命の数の中にはふくまれることは、ない。現在の世界で人の命の価値について、一方は人間として尊ばれ悼まれ、他方は敵として軽蔑され殺されて捨てられるという、二極化がみられることが、実は宗教と暴力の原点になっているのではないかと思われる。
いまや、わたしたちは宗教がもつ本来の役割をもう一度思い出してみることが必要である。キリスト教にみられる「隣人愛」や「黄金律」(「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という倫理的ルール)の教え、ユダヤ教やイスラームの日常生活上の道徳、ユダヤ教の「十戒」、イスラームの「タクワー」の精神などが、正確に実施されていれば、宗教的暴力やテロなど起きるはずがない。「あなたの敵を愛し…」というイエスの言葉は現実には実行不可能な理想であるが、「自分にして欲しいと思うことをほかの人にもしてあげなさい」という教えなら、誰でも実行することができよう。「敵を愛する」ではなく、こちらのほうを「黄金律」として尊重したのも人間にとって実行可能な自然な教えであったということができるかもしれない。イスラームの「タクワー」とは神に対する恐れを意味すると同時に、自らを低くして絶対的な神に全身全霊で従うことを意味している。神の前で徹底して謙虚になれる人は、他人に対しても優しくなることができる。そういう意味では「タクワー」はキリスト教の「隣人愛」にも通じる教えである。
二〇世紀の後半から各地で台頭してきた宗教復興運動の隆盛を見るにつけ、近代政治体制を導いた政教分離政策はますます形骸化しているようにみえる。政教分離政策は本当に現代政治にとって最善策であったのかという疑問が湧いてくる。実際には宗教集団の影響を完全に排除した政権など、どこにもないからである。
世界的な宗教復興のなかで、キリスト教もイスラームも、ますます大きな使命を背負っていると自覚することが大事である。