第6回講義 ヘブライ語の四十年
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- 2013年10月4日
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第6回講義
ヘブライ語の四十年
小林進
まずはヘブライ語というもの セム語の一つとしてのヘブライ語
ヘブライ語という言語は通常セム語の一つと見なされる。ゲゼニウスの『ヘブライ語文法』(Gesenius’ Hebrew Grammar, ed.& enlarged by the late E. Kautzsch, transl. by A.C.Cowley)によると、セム語と呼ばれる言語が適用される地域はパレスチナ、フェニキア、シリア、メソポタミア、バビロン、アッシリア、アラビアにまたがり、西は地中海から東はユウフラテス川、チグリス川の東岸に至り、北はアルメニア山脈から南はアラビア湾の湾岸地帯までを包含する。この定義は創世記10章21節以下に見られるセムの子孫のリストを土台にしたもので、これら地域の諸民族、諸国家の中で用いられた諸言語の間には複雑な関係が存在するであろうが、伝統的また習慣的にこれに属する諸民族をセム族とし、その言語をセム語と呼んできた。
旧約聖書が書かれたヘブライ語は中部セム語、またはカナン語群に属する。旧約聖書それ自体の表現としては、イザヤ書19章18節「カナンの言葉」(シェファス ケナーン、「カナンの唇(話、言語、方言)」の意)と、36章11節「ユダの言葉」(イェフディース)に見られるが、ヘブライ語という呼称は後代のものであろう。これには、ユダ=イスラエルの複雑な歴史が背後にあり、筆者にとっては、ユダヤ語とかイスラエル語という名称を採らなかった歴史の不思議を感じる(出エジプト記21章1-11節[契約の書冒頭の位置に注意]、申命記15章12-18節、エレミヤ書34章8-16節)。
これをいくらか詳細に見ると次のようになる。
1.南方セム語(The South Semitic)またはアラビア語群(Arabic branch)と呼ばれるもの。これは古代南方アラビア語(the older southern Arabic)とその支流であるゲエズ語(Ge’ez)或いはアビシニア(Abyssiniaエチオピアの旧称)と呼ばれるエチオピア語(Ethiopic)を指す。
2.中部セム語(The Middle Semitic)、またはカナン語群(Canaanitish branch)。ここに旧約聖書のヘブライ語と、やがてミシュナー(Mishna)やラビ文学(Rabbinic literatures)を生み出したその後の新しいヘブライ語が属する。またフェニキア語、そしてカルタゴとその植民地で持ち用いられたピューニック語(Punic古代カルタゴ語)、更にはモアブの王メシャの碑文に掘られたものや、多くの遺物、遺跡に見られるカナン語方言で保存された場所名、人命等もこれに属する。
3.北方セム語(The North Semitic)またはアラム語群(Aramaic branch)と呼ばれるもの。
この語群は更に(1)西方アラム語またはシリア語で、シリアのキリスト教徒の筆記言語でもある。(旧約聖書もおそらくキリスト教徒によってこのシリア語に翻訳されており、「平易な」とか「共通した」という意味のペシッタと呼ばれている)また、知識を意味するシリア語のマンダエアン(Mandaean)という名で知られるようになる紀元後一世紀末のグループが、書いた質の低い宗教文書も言語もこの言語群に属する。更にユダヤ人がシリア語に母音変化や音素交換をした例がバビロニア・タルムードに見られる。(2) 西方アラム語(The Western Aramaic)またはパレスチニアン・アラム語(Palestinian Aramaic)がこれに属し、誤ってカルデヤ語とも呼ばれるもの。またヘブライ語と混成したサマリヤ語。あるいはシナイ半島で発見されたナバタエアン碑文(the Nabataean inscriptions)も、固有名詞や慣用句などについてはアラビア語色が強いが、この語群に属する。
4.東方セム語群「The East Semitic branch)で、アッシリア=バビロニアの楔形文字で書かれた碑文がこれに属し、ついでアカメネス王朝時代の碑文(古代ペルシャ語、イザヤ書に知られるキュロス二世)も含まれる。
全体としては、最初に古代のセム語があり、それがバビロニア語、ヘブライ語を含むカナン語、そして最後にアラム語やアラビア語に分岐して言ったと考えられている。
セム語の特徴は(1)子音が中心で、母音は従(母音の発明はマソラ学者によるものとされ、かなり後代になってから)。母音は、しかし、子音から成る単語の時制、分詞、人称などの変化に応じるために幾重にも変化する。(2)単語の語根は必ず三つの子音から構成される。(3)動詞の時制は過去と未完了(未来)の二つしかない。(4)名詞は男性と女性の二つの性(gender)しか持っていない、等々。
この他、一つのヘブライ語動詞が語法(基本形、強調形、使役形)、接頭辞(人称)、接尾辞(人称、目的語)、男性・女性などを含めて、百態近くに変化する特殊な言語であること、また語順の拘束度がかなり緩いこと、更に預言書などでは一文章の中で人称の変化が自由に行われること(例:ミカ書7章20節)などもヘブライ語の特徴として挙げておくべきであろう。
この他、種々のヘブライ語の特長があるが、これまでの事さえも既に専門に過ぎる事であり、ヘブライ語そのものの話しはこのくらいにしておこう。
ヘブライ語の勉強の隙間から見えてくるもの
宮本武蔵『五輪書』の「水の巻」末尾に、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」という言葉がある。武蔵の兵法経験から生まれた実感である。逗子の教会を国道に出て、鎌倉方面に50歩行った所に接骨院があり、その玄関にこの書が掲げられている。稽古とは「昔のことを尋ね/調べる」の意であり、鍛練とは「鍛え、錬る」ことである。その意は、「昔に尋ねて調べる」ことが「鍛え、錬る」ことであり、稽古とは、まず3年を手始めとして鍛となり、30年をもって練となるのである。少なくとも30年を一心に修行しないと鍛練にはならないというのが武蔵の経験哲学であった。皆さんはいかが受けとられるであろうか。
ものを見る目というものを、どのくらいの射程で据えるか
宮本武蔵の「千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬とす」(『五輪書』水の巻)は、武蔵が自分の兵法の経験を述懐して語ったものだが、翻って、人が何か一事一芸に志し、それを人生という射程で考えてみると、この千日万日が実は稽古というものの最も短い期間の目安だということを、ヘブライ語を始めて三十年過ぎてから分かるようになった。しかも、まずこの三十年という期間はどこまでも「鍛錬」の期間であり、三十年を越えて三十一年、三十二年、三十三年という歳月を経てもそれらの年月はなお暫くは「鍛錬」の範疇に留まる。だから、三十年にわたって鍛錬の経験が出来るのは恵まれたことだといわねばならない。というのも、よくよく考えてみれば、三十年という歳月は人間にとって貴重そのものであるというばかりでなく、人生そのものの核を構成するものであると見ることができるからである。
更に、三十年の稽古を一年また一年と重ねていくと、三十年に加えた一年と、三十一年に加えた一年とでは、それぞれの一年が単なる累計ではなく、深化或いは倍加的な性質を備えた一年一年であることが実感されるようになる。これはやってみなければ分からないことで、面白い経験だと思う。
そうこうするうちに、やがて四十年ともなると、鍛錬という意味合いがなくなるわけではないが、その表現だけでは言い表せない、微妙な感慨が生まれてくる。例えば、野菜(果実)を育てる経験をすると、ある一定の所までは待ち遠しいほどの緩やかさで成長するが、この一定の所を過ぎると、これまでとは比較にならない速さで成熟へと向かい、成熟した後は雪崩れ込むように腐敗へと急ぐのである。野菜の生育時間を人生或いは鍛錬に置き換えてみると、その成熟(美味しさ)はおそらく三十年と四十年の間の何処かある一定の期間にあるのであって、その時を見極めるのは難しいが、見極めるのが農夫の業であるということになる。
ところで、四十年という歳月を耳にして、旧約聖書に携わる者に咄嗟に思い浮かぶのはイスラエルの荒野の四十年である。出エジプト記から申命記に描かれるこの物語は、モーセを指導者と仰いだイスラエルの荒野放浪の苦難と神による約束の地への希望がいわば表裏となって織り成される。申命記8章2節は次のように言う。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべて(の言葉)によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足が晴れることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
そして申命記32章48節以下と34章5節以下でモーセが約束の地にははいれないという記事に続いて、ヨシュア記5章6節はこの荒野の四十年について次のように総括する。
イスラエルの人々は荒れ野を四十年さまよい歩き、その間にエジプトを出て来た民、戦士たちはすべて死に絶えた。彼らが主の御声に従わなかったため、我々に与えるとお誓いになった土地、すなわち乳と蜜の流れる土地を、彼らには見せない、と主は誓われたのである。
ヨシュア記は申命記学派(Deuteronomist)と呼ばれる人々の作品とされ、申命記の思想を強く継承したあるグループと考えられている。ここでは、四十年という歳月はイスラエルの不従順の歳月であり、約束の地を目前にした断絶(discontinuity, disconnection, severance, gap)が語られる。この断絶を味わうのは、エジプトを勇んで出発したすべての人々であり、断絶の中で連続を可能にするのは砂漠で生を享けた新しい世代の人々である。四十年という歳月の持つ不思議な意味合いを語っていると思われる。
因みに、旧約聖書で語られる五十年は、前587年のバビロン捕囚からペルシャ王キュロスによるユダの帰還許可の勅令発付が538年であり、その間五十年の歳月が捕囚期間として記憶される。第二イザヤ(40-55章)と呼ばれる個所は、この捕囚期の無名の預言者の語ったことと、彼に関する回想徒で構成されていて興味深い。またわが国では、熊谷直実と平敦盛の一の谷の戦を題材にした幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生をうけ、滅せぬ者のあるべきか」などが思い起こされる。これは桶狭間へ出陣する信長が舞って謡ったとされる。
思へばこの世は常の住み家にあらず 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし 金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
正典としての旧約聖書 文学としての旧約聖書
旧約聖書がキリスト教会の正典にされているということは、具体的には何を意味しているのか。その場合、キリストについての預言の書として旧約聖書を捉えるのが最も一般的な理解である。しかし、そもそも預言とは何かという問題が問題である。ギリシャ語のπροφητηs(προ+φημι)は「前もって+語る」の意。しかし、ヘブライ語のナーバー(この動詞は実際にはニファル形、すなわち受動態で使用されるが、その意味は定かでない。??????)。昨年、カトリック司教会からの要請として、旧約聖書の翻訳に際し、キリストを中心に据えるよう(Crist‐centred)との文書が紹介されたが、この要請は旧約の翻訳担当者の間ではあまり芳しくなかった。キリストを中心に据えるという解釈の軸は、歴史の時間の流れ(diachronic)を逆転させることであり(synchronic)、ひいては三位一体論的に旧約聖書を理解しなければならない(must)ということにまで議論が及ぶ。この要請は、実は、カトリックとプロテスタントを問わず、キリスト信者に並べて見られる強い無意識の要請でもある。すなわち、歴史への無関心を醸成するか、無関心に包含されるかである。旧約聖書は歴史の書、ないしは歴史の産物であり、しかも思想的にも文学史的にも決して一枚岩ではない。イスラエル史を勉強して、当該旧約聖書の語る歴史的時点と状況を理解しないと、説教の糸口には成り得ない。この点が、旧約聖書の難しさであり、面白さでもある。例えば、一度でもいいから、マックス・ウェバーの『古代ユダヤ教』読破にチャレンジしてみるとよい(その長所と弱点。そして『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』も)。言い過ぎになるかもしれないが、旧約聖書を学ばないことによる、歴史感覚の欠如という点を一度は考えてみるのがよい。
「歴史とはひとり子を失った母の悲しみです」、「人間が歴史を作るのではない、歴史が人間を作るのだ」、「歴史を学ぶとは、今の自分を知ろうとする行為だ」。
翻訳と日本語
1980年代当時、英国に留学はしてみたものの、論文を構想するだけの力のない自分、英語という言葉の大河の前で立ち往生するしかない自分、そしてもう一つの大河ヘブライ語、更には独仏で書かれた文献を渉猟すること、また古代語(シリア語、アラム語、ギリシャ語、ラテン語)に翻訳された旧約聖書を読む力を養わなければならないという必須(must)を前にして、打ちのめされながらの毎日で、藁をもつかみたい状況でした。そうした中で出会った言語学の面白さ(わたしの場合はローマン・ヤコブソン)や構造主義に触れ、状況を打開するための模索の一環としてレビィ・ストロースにたまたま触発され、物をどういう角度から観るかという刺激を受けた。
また、留学から帰ってほどなくして、四十歳前後に小林秀雄の「批評」の精神に触れることになった。この出会いは自分の人生にとってかなり大きかった。思索する言語というものがあることを知ったのは小林秀雄による(『本の広場』所収「出会い」、2011年拙稿)。未だ三十年は経ていないが。そして、神学校に入学して以来、神学を翻訳文で読んできた自分の邦語の貧しさに気付かされた。この経験は自分の中で徐々に膨れ上がり、日本語という自分が本来そこに育まれたもう一つの大海を自覚するようになる。それはまた、未だ実現できていないが、加藤周一の『日本文学史序説』から学ばされるように、日本の文学史が奥行と幅の広さでわれわれを圧巻することにたじろぐばかりである。目下、好きな一巻は『平家物語』で、旧約聖書を読んでいて涙することは殆どないが、平家物語を読んでいるとしばしば涙を誘われる。これは読み手の問題であるよりも、まず何よりも語り手の心の問題であろう
再び、遠くを見る目
遠くを見る目とは、逆説的だが、実は近くを見る目のことである。われわれが見ているのは「今」という近さである。しかし、それを見るのは忍耐が要る。近ければ近いほど、それを見るには忍耐が要る。だから大抵は忍耐できずに近さと今を放棄してしまう。この近さと今を再び見るようになるには、歳月という授業料が要る。自分の一年一年にきちんと授業料を払っていればの話しである。
人はしばしば、いくらか年をとって、物が見えるようになったと言います。人は果たしてそういう者なのかどうか、わたしは、はっきりと言い切ることができません。しかし、もしそのように言えるとしたら、人生の経験を積んで自分のものとした自信がそう言わせるのでしょう。
その自信と物を見る目はおそらく「現在」のものに向けられているのでしょう。
もう一度繰り返しますが、遠くを見る目とは現在を見る目なのです。
思い出をどのくらい持っているか
人間の豊かさは、自分の生きた過去に関して、良くも悪くも、思い出と称するものをどのくらい持っているかによって決まる。なぜか。それは、その過去によって今の生が規定されるからだ。これから、新たな思い出をわれわれはいったいどれほど持つことができるというのか。これから、そんなにたくさん思い出を作ることができないと分かった時、人生はある種の豊かさを持つことができるのではないだろうか。
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