第7回講義 コヘレトについて
- 小林 進
- 2013年12月6日
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第7回講義(2013年12月7日)
コヘレトについて
ナザレ研修会第七回 2013年12月7日 ナザレ修女会 小林進
コヘレト、或いは伝道の書([英]Ecclesiastes、Qoheleth; [独]Kohelet、[仏]Ecclesiastes (Qohelet)と呼ばれる旧約聖書の一巻קֹהֶלֶת(Qoheleth)について、我々はどんな印象を持っているだろうか。人によって印象はまちまちであろうが、その理由は、われわれ一人一人が旧約聖書に対してどんな印象を持っているかに大きく左右されている。われわれが置かれた年齢、状況、環境、境遇、経済、家庭などなどによって、コヘレトに関する印象は異なってくる。旧約聖書については、それを律法、或いは預言の書と見なすのが一般的だが、これは新約聖書の影響によるところが大きい。律法や預言の書といった旧約聖書の大きな文学ジャンルに入らず、箴言などと共に知恵文学と呼ばれるジャンルに位置するコヘレトをわれわれはどう理解するだろうか。
英語のエクレシアステスEcclesiastes(或いはEkklesiastes)は、ギリシャ語のエクレシア(εκκλησια)、すなわち「教会」という言葉からきており、エクレシアステス(εκκλησιαστηs)で「教会の一つ」、或いは「教会人」という意味を持つ。しかし、英語圏の教会では、このエクレシアステスを「説教者」と見なす伝統があり、邦語の「伝道の書」はそこから(漢語を経て?)命名されたと思われる。
コヘレトをどう理解するかについて、定まった学問的一致というものはない。旧約聖書の一巻一巻がそうであるように、コヘレトに関しても学者間の意見は様々である。
コヘレトは悲観的、厭世的、pessimistic ?
空しい(へベルhebel הֶבֶל)、(ハベルhabel הֲבֵל construct state)(ハーベルhabelהָבֶל in pause )、ハバリームhabalimהֲבָלִים)35回
1章2節(5回、「すべて」、コヘレトを総括、要約する主題のようなもの)、14節(「すべて」、知恵の探究);2章1節(快楽と愉悦の探究)、11節(「すべて」、快楽と愉悦と富の探究)、15節(賢者と愚者の均質化、死と忘却)、17(「すべて」賢者愚者の均質化、死と忘却)、19節(労苦の伝達の空疎化)、21節(労苦の伝達の空疎化)、23節(休息、安息なき人生)、26節(神による善人と悪人の識別);3章19節(「すべて」、人間と動物を区別することなく訪れる死);4章4節(人間の努力の根源にある競争心)、7節(家族も友もない男の富の探究)、8節(家族も友もない男の富の探究)、16節(連綿とした民族の世代交代、連続性);5章9節(富への執着);6章2節(富を得ても、それを享受できない人)、4節(流産の子)、9節(欲望の過多)、11節(饒舌?)、12節(短い人生そのもの);7章6節(愚者の笑い)、15節(因果応報ではない人生);8章10節(悪人と義人の因果応報ではない処置)、14節(2回、悪人と善人の因果応報ではない報い);9章9節(空しい人生における、妻との生活享受);11章8節(長生きに伴う労苦);12章8節(3回「すべて」、1章2節の繰り返し、コヘレト書を総括、ないしは要約するもの)
*1章から4章まで「風を追うようなものだ」という表現との並行記事を多く持つ
風を追うよなものだ(風を養うようなものだ / 風を追うようなものだ)(レウース ルーアッハre’uth ruah וּרְעוּת רוּחַ、ラゥイョーン ルーアッハרַעְיוֹן רוּחַ )9回
1章14節(1回、12-18節知恵の探究)、17節(1回);2章11節(1回)、17節(1回)、26節;4章4節、6節、16節;6章9節
時の相対化と出来事の相対化(特殊化)? 繰り返し、同じこと(平等)
1章3-7節(自然の繰り返し);1章8-11節(人事の繰り返し)2章12-17節(人事に同じことが起きる)、26節(神による善人と悪人の識別の相対化);3章1-8節(時の相対化?時の特殊化?)、9-11節(時の相対化、或いは特殊化?)、9章1-3節(人事の相対化)、9章11-12節(人事の相対化11節、時の相対化12節)
神の業の不可知
2章26節(善人と悪人に対する神の報いは識別できる対象と見る);3章11節(人間における時と永遠の感知)、12-17節(神の業に関与することの出来ない人間と、飲み食いだけは人間の労苦に対する神の賜物だという認知)、8章17節(神の業についての探究の限界)、11章5節(妊婦の胎内における胎児の成長)
人間の探究の限界
1章9-10節(事象)、12-18節(知恵、知識);2章1-11節(快楽、愉悦、富)、12-23節(知恵の探究)、
労苦(名詞:アーマール עֲמֹל、動詞:アーマルעֲמֹל)と益(イツローン יִּתְרוֹן)
労苦
1章3節(2回)、
益
1章3節
否定語 否定詞のlo’(לֹא)+何々を伴う表現、或いは同じく否定詞の’ein(אֵין)+何々を伴う表現
1章8節「語り尽くすことも出来ず」
「目は見飽きることなく」
「耳は聞いても満たされない」
1章9節「太陽の下、新しいものは何一つない」
1章11節「昔のことに心を留めるものはない」
「その後の世にはだれも心に留めはしまい」
15節「ゆがみは直らず」
「欠けていれば、数えられない」
2章16節「賢者も愚者も永遠に記憶されることはない」
4章2節「彼ら(虐げられる人)を慰める者はいない」
4章3節「いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ」
忘却
1章11節(先人の事績);2章16節(賢者と愚者)、9章13-16節(賢者の功績)
享楽的、現実的、voluptuary hedonistic realistic?或いは享受者enjoyment?
人生の享受者 ?
2章24節a(飲み食い)
人間にとって最も良いもの(טוֹב)*aは、飲み食いし
自分の労苦によって魂を満足させること(טוֹב) 2章24節a
(しかしそれも、わたしの見た所では神の手からいただくもの) 24節b
註a טוֹב は動詞(to be good、 to be well、 to be pleasant )と名詞(goodness)、形容詞(good agreeable pleasant )、副詞(well、 rightly)がすべて同形。おそらく、コヘレトの中ではこれらの品詞を明確に区別する必要がないであろう。但し、5章17節のטוֹבָהは名詞の女性形。
3章12節
わたしは知った
人間にとって最も幸福(טוֹב)なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と 3章12節
(人誰もが飲み食いし、その労苦によって満足するのは
神の賜物(מַתַּת)だ、と) 13節
3章22節a
わたしは悟った
人間にとって最も幸福(טוֹב)なのは、
自分の業によって楽しみを得る(יִשְׂמַח)*aことだ 3章22節a
(神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物に過ぎない
ということを見極めさせるためだ、と) 3章18節
註a この原語はsamahで、ここでは三人称単数男性未来形を取っている。下記8章15節の註に記した名詞と同根。
5章17節(飲み食い)
見よ、わたしの見たことはこうだ。
(神に与えられた短い人生の日々に)*a
飲み食いし、太陽の下で自分の労苦したすべてを良し(טוֹבָה)と見るのは
幸福(טוֹב)で良いことだ
註a 原語は「神が彼に与えた僅かな(或いは、数えられる)命の日々 」
8章15節a(飲み食い)
それゆえ、わたしは快楽(הַשִּׂמְחָה)*aをたたえる。
太陽の下、人間にとって 8章15節a
飲み食いし、楽しむ以上の幸福(טוֹב)はない
(それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に
添えられたものなのだ) 15節b
註a ここで快楽と訳出されている原語は定冠詞haを伴う名詞であるが、原語の動詞samahは「(ロウソクが)輝くshine cheerfully」、「喜ぶto be joyful、glad」、「喜ばせるgladden、 cause to rejoice」などの意味を持つ
9章7節a、8節、9節a(飲み食い)
さあ、喜んで(בְּשִׂמְחָה)*aあなたのパンを食べ
気持ちよく(בְלֶב-טוֹב)あなたの酒を飲むがよい。 7節a
(あなたの業を神は受け入れてくださる) 7節b
どのような時も純白の衣を着て
頭には香油を絶やすな。 8節
愛する妻と共に楽しく生きるがよい 9節a
註a上記8章15節の註を参照
11章9節a、10節a、12章1節a
若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。
青年時代を楽しく過ごせ(וִיטִיבְךָ לִבְּך)。
心にかなう道を
目に映るところに従って行け。 11章9節a
(知っておくがよい。神はそれらすべてについて
お前を裁きの座に連れて行かれると。) 9節b
心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。
若さも青春も空しい。 10節
(青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ) 12章1節a
*人生を享受すべしとするこれら七つの個所の特長
1. 人生を享受する機会は神が与えるもの、或いは神からの賜物である(2章24節b、3章13節、[3章22節→18節]、5章17節、8章15節b、9章7節b、11章9節b+12章1節a)
2. 自分に与えられた籤(運命、宿命)は変更不能であり、それを受け入れる必要がある(2章26節、3章14節、3章22節b、 5章18節、 9章9節)。
3. 人生の短さ(5章17節b、9章9節b、11章9節、12章1節b)*セネカとの比較
4.未来将来に対する人間の無知無学(3章11節、3章22節b、8章14節)
*構造的に見ると
1.2章24-26節(→1章12節-2章26節)
この個所は、1章12節-2章26節の結論部分を構成する。ソロモンは人生を満足させようと、最初は快楽を、次いで知恵を探求するが、その努力を回顧して幻滅を覚え、「生きることをいとい」(2章17節)、労苦の結果をいとう(2章18節)。自分を楽しませようと(2章1節a)した計り知れない努力(2章4-9節)も自分を満足させることが出来なかった(2章1節b-2章10-11節)。更には賢者と愚者に区別なしに起こる出来事や(2章14-16節)、どんなに努力しても人間は絶えず忘却の中に取り残されてしまう(2章16節)現実に直面せざるを得なかった。こうしてコヘレトは自分の努力から得たものが悩みと労苦であったことを思い、「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦しても何になろう。一生、人の努めは痛みと悩み、夜も心は休まらない」と述べた後で、2章24-26節において飲み食いして人生を享受すべしと述べるのである。但し、それがおそらく神の手から来るものでなければ、人は人生を享受できないというのがコヘレトの言わんとするところであろう。
2.3章12節(→3章1-15節)
3章1-8節は「時がある」でよく知られた個所である。筆者が恩師R.N.ワイブレイの訃報に接し、ケンブリッジ郊外のイーリーという町の教会で行われた葬儀に参列した折、式文の表に書かれていたのが1節、2節であった「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時がある」。この一連の物言いは、人間に起こる出来事(生と死)、或いは人間に訪れる機会(植える、抜く、保つ、捨てる)を対称synmetry(対照contrast)の組み合わせによって詩的に表現しているが、その出来事や機会を決定するのは神である(11節a「神はすべてを時宜に適うように造った」)。しかし、「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(11節b)のであるから、神が今、そこで、賜物として与えてくれる幸いは享受すべきであるというのが、コヘレトの言わんとするところであろう。
3.3章22節a(→3章16-22節)
3章16節は、この世界には紛れもなく不正が存在するという事を語る。次いでコヘレトはこの問題について、伝統的な考えである「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」(17節a)という点を挙げる。しかし問題は、それが何時であるかを人間が知らないという点にある。すなわち、3章1節で既に述べられているように「すべての出来事、すべての行為には、定められた時があり」(17節b)、その時が何時であるのか前もっては人間には知らされていないからである。また、神の裁きは、死を越えてまでは影響を及ぼさず、一人一人の功罪にかかわらず、「すべてはひとつの所に行く」(20節a)のである。この憂鬱でみじめな状況の中から、コヘレトは22節aで、「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った」と肯定的な言明をし(「悟った」と訳出される原語は「見た」)、その理由として(!)、それが人間の「分」(ヘルカ― החֶלְק)であり、「死後(または、その後)どうなるか誰も知らせてくれないからだ」(22節)と述べる。
4.5章17節、8章15節a、 9章7節a.8節.9節、及び 11章9節. 10節a.12章1節aは、次回2014年2月のこの研修会で。
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