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​講義・講演の記録

第8回講義 コヘレト(伝道の書)について(2)

第8回講義

コヘレト(伝道の書)について(2)

         ナザレ研修会第八回 2014年2月1日 ナザレ修女会  小林進

*人生を享受すべしとするこれら七つの個所の特長

1. 人生を享受する機会は神が与えるもの、或いは神からの賜物である(2章24節b、3章13節、[3章22節→18節]、5章17節、8章15節b、9章7節b、11章9節b+12章1節a)

2. 自分に与えられた籤(運命、宿命)は変更不能であり、それを受け入れる必要がある(2章26節、3章14節、3章22節b、 5章18節、 9章9節)。

3. 人生の短さ(5章17節b、9章9節b、11章9節、12章1節b)*セネカとの比較

4.未来将来に対する人間の無知無学(3章11節、3章22節b、8章14節)

    *構造的に見ると 

1.2章24-26節(→1章12節-2章26節)

 この個所は、1章12節-2章26節の結論部分を構成する。ソロモンは人生を満足させようと、最初は快楽を、次いで知恵を探求するが、その努力を回顧して幻滅を覚え、「生きることをいとい」(2章17節)、労苦の結果をいとう(2章18節)。自分を楽しませようと(2章1節a)した計り知れない努力(2章4-9節)も自分を満足させることが出来なかった(2章1節b-2章10-11節)。更には賢者と愚者に区別なしに起こる出来事や(2章14-16節)、どんなに努力しても人間は絶えず忘却の中に取り残されてしまう(2章16節)現実に直面せざるを得なかった。こうしてコヘレトは自分の努力から得たものが悩みと労苦であったことを思い、「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦しても何になろう。一生、人の努めは痛みと悩み、夜も心は休まらない」と述べた後で、2章24-26節において飲み食いして人生を享受すべしと述べるのである。但し、それがおそらく神の手から来るものでなければ、人は人生を享受できないというのがコヘレトの言わんとするところであろう。

2.3章12節(→3章1-15節)

 3章1-8節は「時がある」でよく知られた個所である。筆者が恩師R.N.ワイブレイの訃報に接し、ケンブリッジ郊外のイーリーという町の教会で行われた葬儀に参列した折、式文の表に書かれていたのが1節、2節であった「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時がある」。この一連の物言いは、人間に起こる出来事(生と死)、或いは人間に訪れる機会(植える、抜く、保つ、捨てる)を対称symmetry(対照contrast)の組み合わせによって詩的に表現しているが、その出来事や機会を決定するのは神である(11節a「神はすべてを時宜に適うように造った」)。しかし、「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(11節b)のであるから、神が今、そこで、賜物として与えてくれる幸いは享受すべきであるというのが、コヘレトの言わんとするところであろう。

3.3章22節a(→3章16-22節)

 3章16節は、この世界には紛れもなく不正が存在するという事を語る。次いでコヘレトはこの問題について、伝統的な考えである「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」(17節a)という点を挙げる。しかし問題は、それが何時であるかを人間が知らないという点にある。すなわち、3章1節で既に述べられているように「すべての出来事、すべての行為には、定められた時があり」(17節b)、その時が何時であるのか前もっては人間には知らされていないからである。また、神の裁きは、死を越えてまでは影響を及ぼさず、一人一人の功罪にかかわらず、「すべてはひとつの所に行く」(20節a)のである。この憂鬱でみじめな状況の中から、コヘレトは22節aで、「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った」と肯定的な言明をし(「悟った」と訳出される原語は「見た」)、その理由として(!)、それが人間の「分」(ヘルカ― החֶלְק)であり、「死後(または、その後)どうなるか誰も知らせてくれないからだ」(22節)と述べる。

4.5章17節→(5章9-19節)

 5章9-19節は、富、財産、あるいは裕福について語る。富はここでも人を(或いは、コヘレトを)満足させることが出来ず(9節)、いつまでも続かず、それは手に入れるより早く失う(12-13節)。また、人は死ぬ時にそれを持って行くことが出来ない(14-15a節、ヨブ記との類似)。ソロモンがそうであったように、人が手にする物は結局悩みそのものなのである。コヘレトにとって、人生は否定的である、「風を追って労苦して、何になろうか。その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない」(15a-16節)。しかし同時に、それなればこそ、「飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ」(17節)と述べる。しかも、それは神から与えられものなのである(17節)。コヘレトの時代にはすでに諺として知られていたと思われる4章6節の「片手を満たして、憩いを得るのは、両手を満たしてなお苦労するよりも良い」は、この単元の手短な総括のような響きを持つが、それに対してコヘレトは彼の常套句である「それは風を追うようなことだ」という言葉を添えている。

5. 8章15節a→(8章10-15節)

 8章10-15節は3章16-22節と近似したテーマ(不正の存在)を取り上げている。10節の原文はやや脈絡的な破格があって、正確に翻訳するのが難しい。直訳すれば、「そこで、わたしは悪人が墓に葬られ、聖なる場所に行ったり来たりするのを見た。/ 彼がなした正しいことでさえ、町で忘れ去られる」であるが、果たして前半の主語(「彼ら」)と後半の主語(「彼ら」)が同じ悪人を指しているのか、あるいは悪人と反対の極に立つ「正しい者」を指しているかどうかという点にある。もし、後半が「正しい者」を指しているなら、正しい者は「忘れ去られる」ということで、悪人の不当な評価と明瞭なコントラストを構成する。いずれにしても、その言わんとするところは、続く11節や14節と同様、コヘレトの思想に一致しており、悪人はしばしば生前も死後さえも不当に高く評価されるという点にある。11節はこの問題の核心を告げる「悪事に対する判決が速やかに実施されないので、人の心は悪事を働くに敏である」。だから、「罪を犯し、百度も悪事を働いている者が、なお、長生きしている」(12節a)という事になる。  続く12節bと13節の「神を恐れる人は、恐れるからこそ幸福になり、悪人は神を恐れないから、長生きできない」は、一読しただけでは、これまでのコヘレトの主張と矛盾を着たし、続く14節との間に齟齬を生む印象を受けるが、もし3章17節の、従ってかの有名な3章1節以下の「時」についてのコヘレトの思想を思い起こすなら、人は「時」というものについて無知であり、人は神がいつ裁きを行うのか知らないという主張との間に矛盾も齟齬も見て取る必要はないであろう。17節は言う、「正義を行う人も、悪人も、神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」。人は、悪に手を染めようとする誘惑に負けてはならず、自分の運命を神の手に委ねることが間違いを食い止めることとなる。15節の結論は、神から与えられた食い飲みする機会と、自分の業を楽しむことこそ、人人間に最も相応しいことなのである。

6. 9章7.8.9節a→(9章1-10節)

 9章1-10節は、二つの興味深い問題を扱う。ひとつは、人間は果たして、自分の行為によって、神を喜ばすことが出来るのかどうかという問題である、「それが愛なのか、憎しみなのか、人はしらない」(9章1節)。他は、死は、生きとし生けるものに必ず訪れる、という問題である(2節、3節a)。

 この二つの問題に対して、人間が取るリアクションとして、コヘレトは次のように述べる、「生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂い」(3節b)。すなわち、自分を抑制するものがない時に人は悪に染まり、自分のすることだけは途切れることなく永遠に続くと思い込んで常軌を逸する人間の常に対して、コヘレトは、より良い道を諭そうとする。命というのは神から与えられた尊い賜物であり(4-6節)、人は神が与えてくださった喜びの機会を楽しむべきであり、そうであれば、神はすでにあなたの(人の)行為を嘉(よみ)して下さったという事が含意されているのだ(7節)、と。8-10節の最後の個所で、コヘレトは既に他の個所で挙げた理由を述べる。死は確実で、決定的であり、(だから、そうであっても)、もし人が自分の人生の骨折りに対して真摯に向かい合うなら、その骨折りは決して重荷ではない。「何によらず、手を付けたことは熱心にするがよい」(10節a)。

7. 11章9節、10節a、12章1節a→(11章7節-12章7節)

 11章7節-12章7節では、生を楽しむべきだとする助言が最初になされ(11章7-10節)、次いで死にいたる老齢への言及をもってこの部分の最後を飾る(12章1-7節)。とりわけ、後半部分は「アド アシェル」( עַד אֲשֶׁר 「前に」「~まで」の意)という副詞句が三度用いられ(1節、2節、6節)、「汝の若き日に、汝の創造主を覚えよ」(1節a)という命令句を説明、補足する文章を導入する。コヘレトは「老齢と死」について語ることでこの書を終わらんとするにあたって、読者がその現実にひるむことなく、しっかりと直面するよう諭す(1b-6節)。

よく知られた12章1節aの「汝の創造主を覚えよ」という命令が積極的な性質を持っていることは明らかである。神を「創造主」と表現するのは、旧約聖書で唯一ここコヘレトの当該箇所のみである。しかも、「覚える」(「覚えよ」)という行為は厳密には、もっぱら青春時代にのみなされることであって(!)、そのことは続いて「苦しみの日々が来ないうちに、『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」という後続文章の言明からよく推測されるべきである。そうであるならば、自分の創造主を覚えるということは、その創造主が彼の人生において用意してくれる良いものを彼が享受することこそ、自分の創造主を覚えることに他ならない。重ねて言えば、生を享受することこそ、創造主を覚えることであると言える。人の、従って若者の、短い生は、「霊がそれを与えてくださった神に帰る時まで」(7節b)、神の賜物であって、他でもない、今ここで享受すべきものだ、というのがコヘレトがここで言わんとする所である。

    *コヘレトの七つの個所の文脈のまとめ

 1. 人間が努力して骨を折る空しさ(1章12-2章26節)

 2. 未来に関する人間の無知の空しさ(3章1-15節)

 3. この世界に不正が存在する空しさ(3章16-22節)

 4. 富を追及する空しさ(5章9-19節)

 5. 悪人が罰せられない空しさ(8章10-15節)

 6. 誰もが免れない共通の運命の空しさ(9章1-10節)

 7. 人間の命が短いという空しさ(11章7節-12章7節)

 コヘレトはこの世界にこうした様々な空しさが存在することを否定しないばかりでなく、むしろそれらを強調しさえするので、徹底した悲観(厭世)主義者と見なされてきた。しかしそれにもかかわらず、いやむしろ、そうであればこそ、彼は、創造者がこの世に存在することを赦した悪を、ある意味で、超越して生きるための答えや勧告をすることが出来るのである。

    *推測されるコヘレトの暫定的な結論ないしは推論

 1. 神が人間に与える良いもの、それはわれわれが享受するためのものであり、神はそれを与えることによってわれわれの行為を是認して下さる。神が下さったものを享受することは、神の思いを成し遂げることでさえある。

 2. 悪がこの世に存在することを赦した神の目的と理由について、我々は無知であることを認めねばならない。なぜなら、a神がわれわれに課した運命をわれわれは変えることが出来ないからであり、b神がわれわれのために備えておられるものが何であるか、我々は知らないからであり、c命は短く、死は避け難いからである。

 3. 労苦とは、神がこの世においてわれわれに課した「分」であり、自分の努力に信頼することは空しいと認識してはじめて、自分の労苦の中に喜びを見出すことが出来る。

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