第9回講義 雅 歌 -エロス(Eros)、風土(climate)、植生(vegetation、flora)、動物相(fauna)-
- 小林 進
- 2014年4月5日
- 読了時間: 11分
第9回講義
雅 歌
-エロス(Eros)、風土(climate)、植生(vegetation、flora)、動物相(fauna)-
ナザレ研修会第九回 2014年4月6日 ナザレ修女会 小林進
石走る(または、石そそく(灑))垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
石激 垂水之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
(万葉集巻第八 春雑歌1416)
志貴皇子 (天智天皇の第七皇子)
岩の上を勢いよく流れる 滝のほとりに ワラビが芽を出す春に なったんだなあ
蕨(日当たりの良い原野)と薇(林の中の湿り気のある場所) だとすると夜叉薇か?
以下、雅歌における問題の糸口として、エロスと風土という項目を設けて、どういう表現がなされているか、またどういう物、場所が言及されているかざっと触れてみたい。この一巻が旧約聖書(正典)に受容された理由の一つは、ソロモンへの言及によって(1章1節、5節、3章7節、9-10節、11節、8章11節、12節)、ある種の著者性を読者に向かって装っていることにある。しかし1章1節のように、多くの翻訳において「ソロモンの雅歌」( לִשְׁלֹמֹה )と訳出されるヘブライ語表現は、「ソロモンの様式(スタイル)で」「ソロモンの様式に因んで」とも訳すこともできる。
エロス
身体表現
くちづけする[動詞](1章2節) 口[名詞](1章2節)
くちづけをもって[名詞+前置詞=副詞句](1章2節)
黒い[名詞](1章5節) 黒い[形容詞](1章6節(「日焼けして」)
愛らしい[形容詞](1章5節、10節) 美しい(おとめよ)[形容詞](1章8節(「女たちの中に美しい者よ」、15節[2]、7章7節)
馬に譬えよう(1章9節
房飾りのゆれる頬(1章10節) 玉飾りをかけた首(1章10節)
私の乳房(1章13節) わたしに乳房は二つの塔(8章10節)
乳房は二匹の小鹿(4章5節、7章8節、9節、8章8節、8章8節)
左の腕がわたしの頭の下に伸べ、右の腕でわたしを抱いて(2章6節)
髪は・・山を駆け下る山羊の群れ(4章1節)
唇は紅の糸(4章3節) 歯は雌羊の群れ(4章2節)
こめかみはざくろの花(4章3節) 首は・・ダビデの塔(4章4節)
足(7章2節) もも(7章2節) 秘められたところ(へそ?)(7章3節)
小道具 大道具
ぶどう酒[名詞](1章2節、4節) 香油[名詞](1章3節[2])
天幕[名詞](メタファイ)(1章5節) 車[名詞](「戦車」)(1章9節)
幕屋[名詞](メタファー)(1章5節) 房飾り[名詞](1章10節)
玉飾り[名詞](1章10節) 金の飾り[名詞](1章11節)
ナルド[名詞](1章12節、4章13節) ミルラ[名詞](1章13節)
コフェルの花房[名詞](1章14節、4章13節)
求愛表現
くちづけしてくれるように(1章2節) あなたの名は香油を注ぐ(1章3節)
あなたの愛をたたえます(1章4節) どうぞそんなに見ないでください(1章6節)
教えてください(1章7節)
ファラオの車を引く馬にあなたを譬えよう(1章9節)
恋しい方(1章13節)
恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう(1章15節)
恋しい人、美しいのはあなた。わたしの喜び(1章16節)
わたしは恋に病んでいます(2章5節)
わたしの鳩よ、姿を見せ、声を聞かせておくれ(2章14節)
長い紫の髪(7章6節) 他多数
風土(climate)
植生(vegetation、flora) 穏和な植生への言及
*ぶどう畑(1章6節[2]、2章13節(ぶどうの花)、15節[2]、5章1節(ぶどう酒)、7章9節(「ぶどうの房」)、7章10節(「ぶどう酒」)、13節(「ぶどう畑」)、13節(「ぶどうの花」)8章2節(「ぶどう酒」)、8章11節、12節)
*ナルド(1章12節、但し、ナルドはブータン、ネパール、カシミールを含むヒマラヤ山系の国に自生する。根と、茎の下層部を乾燥させて香料にする。4章13節、14節)
*ミルラ(1章13節、アラビア、エチオピア、ソマリアで自生。パレスティナには自生しない。枝の節から発する分泌物が固まったものを香料として使用。3章6節、4章6節、14節、5章1節、5節[2]、13節)
*エン・ゲディのぶどう畑(1章14節)
*コフェルの花房[名詞](1章14節、英語でenna、赤い香料を抽出する木。4章13節、7章12節)
*レバノン杉(1章17節、3章9節、8章9節) *シャロンのばら(2章1節)
*いばら(2節2節)
*ゆり(2章2節、ヘブライ語のシューシャン( שׁוֹשַּׁן )は多様な百合科を含むとともに、他種の植物を含む言葉。16節、4章5節、5章13節、6章2節、3節)
*りんご(2章3節、ヘブライ語のナーパは通常「りんご」と訳出されるが、小さくて酸っぱく、我々がリンゴと称する物と大分異なり、「甘い」(マートーク)という形容から遠い。植物学者の大家は「あんず」(バラ科」を指すのではないかと考える。事実、パレスティナには太古からあんずが繁殖していた。5節、7章9節、8章5節)
*花(総称)(2章12節) *いちじく(2章13節)
*ざくろ(4章3節、12節、6章7節、7章13節、8章2節)
*サフラン(4章14節)
*菖蒲(4章14節) *シナモン(4章14節) *乳香の木(4章14節)
*アロエ(4章14節) *なつめやし(7章8節) *恋なす(7章14節
*参照エレミヤ書12章5節(ヨルダンの森林)、22章14-15節(レバノン杉)、24章(良いいちじくと悪いいちじく)。オリーブへの言及が無いのはなぜか。
動物相(fauna) 恋の歌であるから、動物相への言及も穏和
*群れ(羊と山羊)(1章8節) *子山羊(雌)(1章8節)
*かもしか(2章7節、ツェビー( צְבִי )。9節、17節、4章5節、8章14節)
*雌じか(2章7節、アヤーラー(הַ אַיְל )。9節、3章5節、8章14節)
*小鳥(2章12節、原文に名詞なし。) *山鳩(2章12節、原文に名詞なし。)
鳩(2章9節、ヘブライ語でヨーナ―(יוֹנָה)。預言者ヨナの名と同じ。5章12節、6章9節)
*キツネ(2章15節[2])
*牡鹿(2章9節、17節、オーフェール( עֹפֶר )17節、8章14節(新共同訳は「小鹿」)
*蜂の巣(5章1節) *烏(5章11節) *雌羊(6章6節)
*参照アモス書9章19節(獅子、熊、蛇)、エレミヤ書13章23節(豹)
場所 土地への言及、
*エルサレムのおとめ(1章5節、2章7節、3章5節、9節、5章8節、6章4節(「エルサレム」)、8章4節)
*ケダルの天幕(1章5節) *エン・ゲディのぶどう畑(1章14節)
*レバノン杉(1章17節、4章8節、4章11節、15節、5章15節
*シャロンのばら(2章1節) *ギレアドの山(4章1節、6章5節)
*マナセの頂(4章8節) *セニル(4章8節)
*ヘルモンの頂(4章8節) *タルシシュ(5章14節)
*ティルツァ(6章4節) *マハナイムの踊り(7章1節)
*シュラムのおとめ(7章1節) *バト・ラビムの門(7章5節)
*ヘシュボン(7章5節) *レバノンの塔(7章5節)
*ダマスコ(7章6節) *カルメルの山(7章6節)
*バアル・ハモン(8章11節)
雅歌の表題
日本の宣教史において、雅歌が言及される端緒については、海老澤有道によれば、1554年イエズス会がインドのゴアで、日本に持参するために準備した目録の中に注解書として、伝道書、詩編、パウロ書簡などと共に雅歌が言及されており、1556年には日本に到着したはずである、とする(『日本の聖書 聖書和訳の歴史』講談社1989年、25頁)。しかし、同氏は、それが邦語としての「雅歌」なのか、あるいは邦訳された注解書なのかについては触れていないが、常識的に考えてラテン語であったろうと思われる(Canticum Canticorum)。更に、同氏の研究によれば、英国出身のモリソン(Robert Morrison,LMS, 1782-1834)によって、広東で1823年に『旧遺詔書』(立教大学図書館、全巻所蔵)と題する漢訳聖書が刊行され、和訳聖書の源流となる功績を遺したこと(同書101-103頁)、またこれを引き継いで、ブリッジマン(E. C. Brigman.ABCFM)とカルバートソン(M.S.Cullbertson, PM)によって1863年に上海で『旧約聖書』を出版したことが言及される。おそらく、このあたりが、雅歌とういう邦訳の源流であろうと推測される。「雅」と言う漢字には、「みやびやかなこと」「高尚なこと」「由緒正しいこと」「正しい音楽の歌」(六義。詩経の序に、詩の種類として六つに分類されるものの一つ。)等の意味があり、「高尚な、素晴らしい歌」と言う意味であろう。言葉の直接的な語義としては、ドイツ語のHohelied(hohe=hoch,高い+lied歌)に近い。
雅歌のヘブライ語は שִׁיר הַשִּׁירִים (シール ハシーリーム、sir hassirim)といい、これを直訳すると、「歌の中の歌」(Song of Songs)となる。このヘブライ語の表現形式は、先に二回にわたって学んだコヘレトの、1章2節のהֲבֵל הֲבָלִים (ハバル ハバ―リ-ム、h bal
h ba lim)と同じである。コヘレトの場合は、「空の空」(Vanity of Vanities)となる。このコヘレトの表現に関しては、多くの学者は「まったくの空しさ」「むなしさの極み」という意味だとする。もし、これを雅歌に当てはめると「素晴らしい歌」「優れた歌」ということになる(後述)。
こうしたヘブライ語表現は、旧約聖書の中で他にもいくつか見られる。出エジプト記29章37節の קֹדֶשׁ קָדָשִׁים (コデシュ コダシーム、qodes qodashim )で、直訳すれば「聖の聖」(Holy of Holies)、申命記10章4節の שְׁמֵי הַשָּׁמָיִם(シュメーイ ハシャーマーイーム 、s me hassamayim )、「天の天」、創世記9章25節の עֶבֶד עֲבָדִים (エベド エバーディ-ム、 ‘ebed
‘ badim )、「僕の僕」などがその例である。比較級と最高級を兼ねた表現であるといえる。
恋愛歌というジャンル、文学様式が孕む問題
雅歌が恋愛歌であるという事は、一読すれば、ほぼすべての読者に明らかである。しかも、歌の描写において、恋人同士の身体表現が直接的、かつ詳細で大胆なことと、その内的なエロス願望が歌の中で極めて強く表現されていること、などにその特徴を見ることが出来る。そこで、エロスが充満した歌が組み込まれたこの一巻に対し、最終的に、先に見たようなタイトル「歌の中の歌」が付されたことは何を意味しているかという問いとともに、どうしてこのような一巻がユダヤ人の正典に組み込まれたのか、そしてそもそもこれらの作品はどこから生まれて来たのか、という様々な問いを喚起させる。これらの問いはいずれも真摯で尤もな問いではあるが、そのアプローチとなると、かなり複雑な問題を孕んでいることを、念頭に入れておきた。
正典に編入されている事実にまつわる問い
軽率の誹りを免れないかもしれないが、日本人の一人として、「こういう作品を正典の中に組み込んだユダヤ人はなかなか粋だね」という評価をすることも出来るだろう。それは、聖書は、旧約聖書は、まず何よりも「宗教の書」であるという前提がわれわれの間に強く作用しており、雅歌のような一巻はそうした宗教性一色の世界から世俗世界へのある種の「抜け穴」、「隠れ蓑」を提供していると考える事も出来るからである。『日本文学史序説』の加藤周一、『日本文学小史』の三島由紀夫、『日本』文学史の小西甚一などの日本文学の歴史を構想する中に、必ず万葉集が大きく取り上げられている事実を考えるなら、雅歌がユダヤ文学(史)の中で(旧約聖書とタルムード、その他の外典、儀典)、しかも旧約聖書の中で一角を占めたという事は、案外驚くべきことではないかもしれない。
正典性
そうは言っても、この雅歌という一巻が正典の中に受容されたことを驚かないほうが、驚くべき事かもしれない。それは、雅歌には、律法への言及が無く、神との契約への言及が無く、イスラエルの神への言及が無いこと等々に窺われるように、殆ど宗教性が欠如しているからである(このあたりの事情は、加藤周一の万葉集の評価を参照するとよい)。また、箴言やコヘレトに見られる「教え」や「教育」という関心も全く欠如している。それに代わって(?)、雅歌はエロスを讃美するのである。雅歌は男と女という二人の人間の声を取り上げ、互いを称賛し、互いを切望し、喜びへの招待を申し出る姿を描くのである。二人は和合し、相手を求め、性的な関係を喜ぶ。これに「エルサレムの娘」が加わって、愛し合う二人のためのコーラスの役割を取ることで(3章6-11節、6章1節(?)、6章10節、7章1節、8章5節、8章6-9節)、読者にも参加を促すのである。
雅歌が正典の中に受容されたのが、歴史的に「いつ」「どこで」「誰によって」を正確に確証、確定するのは極めて難しい。クムラン洞穴で発見されたものは、エステル記以外すべての正典が含まれており、カーボン測定によるものも含めて、それらは紀元前350年から紀元後100年ほどの期間にまで及ぶことが今日では分かっている。これは雅歌も含めて、物証として、一つの目安をわれわれに提供している。しかし、例えば、おおよそ紀元後100年前後に活躍したラビ・アキバについての伝承がここでは役に立つ。彼は雅歌の正典性を擁護して、次のように言ったと伝えられている。「全世界といえども、雅歌がイスラエルに与えられたその日には及ぶべくもない。すべての書物(正典?)は聖なるものである。だが、雅歌は聖なるものの中の聖なるものである」(ミシュナー Yad.3:5)。こうした言明が、雅歌の正典性に反対する人たちを抑えるために意図されたものであると推測することは許されるであろう。雅歌の歌の内容がエロチックであることから、当然その正典性に疑義を挟むことが、紀元後のユダヤ教の中に事実として存在したことを窺わせる。
雅歌がユダヤ教の正典に受容されるまでのプロセスにおいて、賛成と反対のせめぎ合いがあったことは、ラビ・アキバによる雅歌の擁護が雄弁に物語っている。ラビ・アカバは、しかし、雄弁に擁護はするが、擁護の理由については必ずしも明らかにしてはいない。ユダヤ教が雅歌を正典に受容した理由について一般的に言われることは、ソロモンがこの書の著者(性)であるとされることと、またこの雅歌で言われるエロスは人間のエロスではなく、人間に対する神の愛の表現であるという解釈によるとされる。やがて、雅歌で歌われる愛(エロス)は世界創造と安息日の脈絡で理解されるようになり(創世記1章)、現在のユダヤ教では安息日と過越しの祭の機会に雅歌の幾つかの部分が朗唱されている。また、キリスト教は、雅歌が人間のエロスを表現したものと認めつつ、それを神と教会の愛を祝うものとして解釈する。ユダヤ教もキリスト教も寓意的(allegorical)な解釈をして、雅歌が表現するエロスの誹りを軽減しようと努めてきた。
この雅歌がソロモン時代(紀元前10世紀)の雰囲気を映し出しているという学者の意見、しかしヘブライ語としては後代の様相を呈している(関係代名詞 אֲשֶׁר の代わりに、簡略な שֶׁ を他の品詞の接頭に頻繁に用いる)かもしれないという言語学的研究、またギリシャ語からの外来語の散見( אַפִּרְיוֹן 「日蔭」3章9節、 פַּרְדֵּס 「果樹園」4章13節)から、その成立は捕囚時代(紀元前597/87-538年頃)と見るのが一般的である。
多くの他の旧約聖書が捕囚時代に成立したという事情を考慮すると、この雅歌も宗教的な要素を全く持たないにも拘わらず、いや全く持っていなかったからこそ、民族的な文芸遺産として保存する必要に駆られて編纂された見ることが出来る。しかも、人間の本質にかかわるエロスを直截的に表現した歌であればこそ、棄却してはならないものとして保存されたのが、正典受容の隠れた、しかし、大きな本質的な理由ではなかっただろうか。
雅歌の構成は、おおよそ以下の通りである。
序論 1章1–6節
恋人同士の対話 1章7節-2章7節
恋人に対する女性の招待 2章8節-17節
シオンの娘に向けた女性の言葉 3章1-5節
王の結婚 3章6-11節
男が恋人の美を称賛 4章1節-5章1節
シオンの娘に向けた女性の言葉 5章1節-6章4節
男のもとを訪れた恋人の形容 6章5-12節
立会人による女性の美しさの形用 6章13節-8章4節
結語 8章5-14節
最後に雅歌に因んで、万葉集からもう一首。但し、ジャンルは挽歌(エレジー)
愛しき人のまきてし敷たへのわが手まくらをまく人あらめや
(万葉集巻第三 挽歌438)
太宰師大伴旅人(665-731年 家持の父)
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