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​講義・講演の記録

第10回講義(2014年6月7日) ヨブ記 ー難解であるという興味ー   その1

第10回講義(2014年6月7日)

ヨブ記 ー難解であるという興味ー   その1

 ナザレ研修会 第十回 2014年6月7日 ナザレ修女会於 小林進

 ヨブ記の形式と内容

形式的な難解さについて

 ヨブ記は42章から成る長編の一巻である。しかも、文体は、プロローグ(前置き 1-2章)とエピローグ(終結部 42章7-17節)の部分以外は基本的に詩文から成る「物語」である。これは、散文(叙事文)による物語りが読者にとって比較的理解し易いのに比し、詩文で物語の筋をたどるというのは難しいという事実がある。しかも、詩文は言いたいことをかなり割愛して、簡略に表現するため(美的効果、印象効果)、その言わんとすることを正確に理解(解釈、翻訳)することが難しい。これが、まず、ヨブ記の形式的な難しさである。

内容的な難解さについて

 これから数回にわたってヨブ記の話しをすることになるが、最初によく言われるヨブ記についてのエピソードを紹介したい。それによれば、カトリックの信徒に「ヨブについて聞いたことがありますか」と言う問いを投げかけてみると、「ええ、ヨブは敬虔な人で、すべてを失ってしまったのです」という答えが返ってくるという。同じ問いをプロテスタントの信徒に聞いてみると、「ええ、ヨブは反抗的な人間で、自分の苦難は不当だと言って、神とぶつかるのです」との答えが返ってくるという。このエピソードはなるほど些か誇張され、かつパターン化された嫌いがあるが、それでもヨブ、ヨブ記に関するわれわれの理解をよく一般化していると思われる。では、カトリックとプロテスタントの中間を行くと言われる聖公会の信徒に聞いたら、いかなる答えが返ってくるのであろうか。いずれにしても、ヨブ記の思想は複雑な糸が絡み合っているので、その糸をそれとして読み解くことが肝要であり、同時に難しい所である。

  物語りの流れ   

敬虔な人ヨブの輪郭

 まず、プロローグの部分で、ヨブは敬虔な主人で、順調な生活を送っている人物として登場する。彼は裕福で、子どもと財産に恵まれ、宗教的で、神に対して無私な人間である。かたや天上ではサタンが神と対話し、ヨブの私心のなさに疑問符を投げかける。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」。神は「よろしい」とサタンに許可を与え、ヨブの持っているもの、すなわち子どもたちを撃ち、家畜を奪わせる。ヨブには何も残らなかったが、神を棄却することはなかった。次いでサタンは「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです」と言い、ヨブにひどい皮膚病をもたらして彼をなやます。しかし、ヨブの口からは一切神を呪う言葉は出て来なかった。

反抗者ヨブ

 プロローグではヨブは優れて敬虔な人と描かれるが、続く場面(3章)ではヨブは自分の身に起こった出来事を呪い、自分の生まれたこと(存在)を否定する。この否定は、直接神に向けられてはいないが、間接的に神を否定する契機を孕んでおり、反抗者ヨブの姿が浮き上がってくる。同時に、弱気になってしまったヨブの姿と理解することも出来る。

 ヨブの三人の友人、テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルがヨブを慰めようとやって来て、ヨブの惨状を見て共に嘆く(2章11-13節)。しかし、ヨブが自分の生まれた日を否定し続けるのを見て(3章)、ヨブに対して議論をし(4-31章)、次第に激怒するようになる。三人は最早ヨブに同情的な友人ではなくなり、ヨブを告発する者へと変わり、ヨブの苦難はヨブ自身にその原因があることを告げようとする。わたし達が仮に裕福で、すべてが順調に行っているときは、誰もがわたし達の友人であり、わたし達の行動に何か注文を付けようとはしない。しかし、ひとたび事がうまく行かなくなると、その友人は、そして他の人々も、わたし達に対して今や「道徳家」(道徳主義者)になるという次第である。

 ヨブはこの友人たちに対して激しく反発する。彼の言いたいことは、「今自分が受けているこの大きな苦しみの原因となるような罪を自分は犯していない。勿論、人間としては自分は過ちがあるが、このような苦しみを受ける程のものではない。この苦しみをわたしに与えたのは神であり、神は今わたしの身に起こっていることを冷淡に見ているだけである。どうして、わたしはこの苦しみを受けねばならないのか。人の事態が悪化した場合、その原因はその人自身の罪に原因がある、というあなたがた(友人)の考え方(解決策)を、わたしは信じることが出来ない。周囲を見てみろ。善人に悪しき事態が訪れ、悪人にむしろことがうまく運ぶという事があるではないか。これが正義なのか。あなた方はわたしの不服にしっかりと答えてはいない。わたしは神から直接聞きたいのだ。どうか神がわたしに明らかにして下さるように」。

 ヨブと友人たちの議論を理解するのに非常に難しいのは、友人だけでなくヨブもまた因果応報の思想をベースにしているという点である。ヨブと友人の議論のやり取りで、微妙なズレが生ずるのは、ヨブも友人もそのベースを明瞭には意識していないという点にある。

神の答え

 神に答えを求める人は多く、ヨブもその一人であるが、ヨブは実際にその答えを受け取るのであり、これは誰にでも起こることではない。神はヨブに答える(38-41章)。「わたしが大地を据えたとき、あなたは何処にいたのか。あなたはそもそも創造の計画というものを知っているのか。大空の星が集められて、所定の座に納められているのを知っているのか。雨に父親があるだろうか。あなたは彼を知っているか。あなたは動物たちを支配する力を持っているか。あなたはワニの鼻に綱をつけ、顎にくつわを掛けることが出来るか。カバを従わせる力をあなたは持っているか。こうした自然界、創造の事どもを、あなたは寸分漏らさず知っていると言えるのか」。

 神はこうしてご自身の創造の御業の大きさと重要さをヨブに告げ知らせる。この創造は甚だ大きく、広く、深く、人間の存在はその周辺の末梢的な一部を占めるに過ぎない。そして、創造におけるこの人間のちっぽけさをもって、創造主である神を批判して、創造の何かに責任が持てると言うのであろうか。

ヨブの反応

 神の答えに接し、ヨブは世界(コスモス)をまったく異なる視点、すなわち神の視点から見るよう促される(42章1-6節)。しかも、ヨブはこれまで自分が神の視点を知らずに無知であったことを認め、自分が塵、灰に過ぎないことに甘受する。最早ヨブは、神の計り知れない性質、性格を知る必要を感ぜず、彼の友人たちが拠って立ち、ヨブを悩ました、伝統的でかつ古い因果応報方という考え方から自由にされるのである。

神のヨブに対する反応

 神は再びヨブに答え、ヨブが因果応報の考えに依存せず、ありふれた陳腐な信仰の言葉に身を委ねず、むしろ問題に対して正しく語ったことを認める。しかし、神はヨブの語ったことがどうして正しかったのかを明らかにしないので、それは推測すしかない。これを考えてみるに、ヨブが語ったことは、自分自身そのものについてであり、その自分自身と神との関係であり、それは彼の現実的な苦難の視点からのものであった。これに対して、友人たちはヨブの現実的な視点から考えを出発せず、一般的な考え、すなわち、因果応報の考え(神学)から議論した、と言うのが神の友人たちに対する判断である(42章7、8節)。ヨブは自分の見に起こった生の現実から語ったのに対し、友人たちは一般的な視点から議論して、ヨブの特殊な現実を考慮することが出来なかった。友人たちは自分たちが抱いた因果応報という図式を固持するために、神にその責任を押し付けて理解しようとした。

エピローグ 終わり良ければすべて良し

 こうした思想展開の後、ヨブ記はハッピーエンドで結末(エピローグ)を迎える(42章10-17節)。プロローグと同様、ヨブは再びすべてがうまく行く。実際には、以前に勝って、七千頭の羊と三千頭のラクダであったものが、今や一万四千頭の羊と六千頭のラクダになり、実質的に二倍の所有となる。ある読者にとっては(太田博之さん然り!)、このエピローグで語られることは「失望」そのものとも言える。その意味は、結局、ヨブ記と言うのは、因果応報という考えを「はぐらかし」、ヨブは今や彼の長所、有徳、美点の故に良い報いを受けたという事で、この物語を終わらせてしまうことになるからではないか、という所にある。これについて、われわれはどう理解、どう説明をすべきなのであろうか。おそらくヨブ記の最大の問題はこのエピローグにある

ヨブ記の成立時期に関する推測

 ヨブと言う人物は、エゼキエル書14章が示唆するように、古代世界において、不運な運命に晒されてもなお義人として生きた典型の一人で(ノア、ダニエル、ヨブ)、彼らはおそらくはイスラエル人(ユダヤ人)ではなかった。ユダヤ人ではない人物のヨブを主人公とし、知られざる土地ウズを舞台とし、登場する三人の友人もまた非イスラエル人である。テマンはエサウの子孫でエドム地方を、シュアはイスラエルの東方の地(但し不明)、ナアマも不明。こういう非イスラエル的設定で、特殊イスラエル的(ユダヤ)でない問題を語ろうとする背景には、人間の普遍的な問題を扱おうとする意図を汲み取ることが出来る。旧約聖書のどの一巻でも、その成立時期を確定するのは難しいが、紀元前5-4世紀のペルシャ時代を想定するのがよい。

これまでで注意しておきたいこと

 「ヨブ」という名前。動詞は「憎む」「敵対する」。ヨブと言う名詞は「迫害された者」の意。

 イスラエル人ではない。エゼキエル書14章14節、20節

 「ウズの地」、不明な地

 「サタン」「敵対する者」の意。彼は2章以後何処へ行ったのか

 「呪う」1章5節、11節、2章5節→原語は「祝福する」。euphemism歪曲法

 「利益もないのに」1章9節、2章3節

 「ヨブの妻」、一度だけしか言及されない。2章9節

 「呪う」3章1節。ピエル形

 エリフと言う青年の登場をどう理解するか

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