第11回講義 ヨブ記 ー難解であるという興味ー その2
- 小林 進
- 2014年10月3日
- 読了時間: 15分
第11回講義(2014年10月4日)
ヨブ記 ー難解であるという興味ー その2
禅語の一語 意味を取りだし、意味を付与し、意味を放り出す ヨブ記作者の意図(言われたことsaid、言わんとすることsay、言われていないことnot said)
良く知られたプロローグ(1章1節-2章13節) 六つのシーン
天上と地上の関係が語られる。記憶しておきたいのは、「サタンが天上に居り」、「神に影響を与え」、いわば「賭け」のような性格をもってサタンが地上に災いを行使するという点である。しかし、それはサタン一人の問題ではなく、神が連座していることをも暗に語っている。
1章1-5節 地上のヨブの姿。敬虔と繁栄。
しかし、順番による子どもたちの祝宴(4節)と何なのか。子どもを呼び寄せ、生贄を献げるヨブは、過ちを犯さず、すべてを自分のコントロールの中で処理しようとする人間像を示す。「完全(完璧)主義者」(5節)。
1章6-12節 天上での神とサタンの会話。
私心のないヨブの信仰を試す実験。神は親ヨブ、サタンは反ヨブ。ヨブの私心のない信仰に対して、サタンが取り上げるポイントは、信仰とは「利益もないのに」(1章9節)( הַחִנָּם )可能なのかという点であった。もしヨブがこの信仰の試練に遭遇して、それに打ち勝つことが出来なかったら、一体誰が出来るのかという暗黙の問い。しかし同時に、「利益もないのに」という動機に関して、信仰にとって、信ずるための理由は必要なのか、という問題も浮かび上がってくる。
1章13-22節 地上でのヨブの打撃。
長兄の家での宴会(13節)。この宴会の性格については、それがポズィティブなのか(仲の良い兄弟姉妹)それともネガティブなのか(大酒飲み)あきらかではない。 ヨブを襲う不幸は「ご報告いたします」によって四回にわたって報告され(15節;家畜の強奪と若者(僕)の惨殺、16節;天災による家畜の喪失、17節;家畜の強奪と若者惨殺、18節;天災による子供たち死)、そのいずれも「彼が話し終らないうちに、また一人が来て」を三回続けて話をつなぎ(16節、17節、18節)、不幸が矢継ぎ早に襲ったことを語る。4節の順番による子どもたちの祝宴への言及は、18節で大風によって彼らが一時に死ぬという報告を俟って、話の筋立てにとって技術的に必要であったことが分かる(18節)。 ヨブの取ったリアクションは、衣を裂き、髭を剃り、地にひれ伏すことであった。しかし、彼がどんなに悲しくとも、子どもの死を嘆いたことは語られない。すべては一日の間に同時に起こったことであった。物も子供も区別できないほどの不幸であったということは出来る。しかし、この後に続く三人の友人との弁論の中でさえ、ヨブは子どもの死に対する悲しみを一度も口にしない。語られるのはヨブの几帳面な(過ぎる)敬虔であり、妻への言葉さへもなく、中心となるのは(作者にとってもヨブにとっても)もっぱらヨブの視点であり、ヨブのその中に身を置く。 ヨブの信仰が不動であるという印象を与える良く知られた言葉を下記に引用しておく。前半部分の、人間が裸の存在であるという表現は、古代イスラエルでは死に関する警句、ないしは諺として流布していたものと思われ(参照:コヘレト5章14節)、ヨブ(作者)はこれに神賛美を後半に加える。 果たして、この表現は、ヨブがすべてを失った時(瞬間)になされたもので、信仰(表現)の頂点をなすものと考えるべきなのか、それとも、この表現にはなおある種の曖昧さを含み、何らかの含みがあり、その意味を更に再考すべきなのか。 前者の場合は、これがヨブによって示された真の信仰であり、神は創造主であって、初めと終わりを司る者であるという理解があり、おそらく多くの読者はこのように読む。しかし、他方で、ヨブは、突然襲った困難に先ずは圧倒され、よく知られた死の警句を咄嗟に引用したのではないか、と考えることも出来る。 後者の曖昧さを考慮に入れて解釈してみると、確かにヨブは敬虔な人間の原形として描かれており、標準的な信仰表現はするが、未だ自分の被った経験の深刻さに見合った吐露は結局はしていないと見ることも出来る。続く3節の「呪い」(あるいは「嘆き」)はこのことを語っている。狐とぶどう畑。
その21節は
彼は言った וַיֹּאמֶר かしこに わたしは帰ろう また裸で / わたしの母の 胎から わたしは出た 裸で עָרֹם יָצָתִי מִבֶּטֶן אִמִּי, וְעָרֹם אָשׁוּב שָׁמָּה ほむべき 主の 御名は かな / 取りたもう 主 与え 主 יְהוָה נָתַן, וַיהוָה לָקָח; יְהִי שֵׁם יְהוָה, מְבֹרָךְ
2章1-6節 天上での神とサタンの二回目の会話。ヨブの信仰を試す更なる実験 「理由もなく」( חִנָּם )→ サタンには理由がある。ヨブの信仰の性質
2章7-11節 地上でのヨブの信仰不動 しかし、ヨブの妻は名も言及されず、いわばサタンの使いのような役割を分担する。2章9節での彼女の発言は次の通りだが、「賛美する」はeuohemismで、「呪う」の言い換えと理解するのが通説のようになっている。
彼の妻は 彼に そこで言った וַתֹּאמֶר לוֹ אִשְׁתּוֹ 死になさい 神を 賛美して あなたは無垢で いる 何処まで עֹדְךָ מַחֲזִיק בְּתֻמָּתֶךָ; בָּרֵךְ אֱלֹהִים, וָמֻת
これに対するヨブのリアクションは次のとおりである。ここでもまた、先の1章21節で述べたような、ヨブの敬虔に対するある種の疑問符が投げかけられるべきであろう、か。
頂か ないのか 不幸をも / 神 から 頂く 幸福 をも וְאֶת-הָרָע לֹא נְקַבֵּל גַּם אֶת-הַטּוֹב נְקַבֵּל מֵאֵת הָאֱלֹהִים,
さて、ここで、興味深い事実を伝えておこう。後に紀元前三世紀ごろから始まったとされるギリシャ語の翻訳で、「七十人訳」(Septuagint、Septuaginta、Septante)と呼ばれる古代訳では、ヘブライ語における彼女の短い語りに比して、数節が加えられ(拡張?、原文?)、次のような翻訳になっている。
長い時間が経った後、彼の妻は彼に言った。「あなたはいつまでこれに耐え、言うのか。 9 Χρόνου δὲ πολλοῦ προβεβηκότος εἶπεν αὐτῷ ἡ γυνὴ αὐτοῦΜέχρι τίνος καρτερήσεις λέγων
『見よ、わたしは今少し耐え、救いの望みを期待する』などと。 9a Ἰδοὺ ἀναμένω χρόνον ἔτι μικρὸν προσδεχόμενος τὴν ἐλπίδα τῆς σωτηρίας μου;
ごらんなさい。あなたの記憶は地から除かれ、あなたの息子も娘たちも(同じで)、わたしの胎は痛みと困惑に打ちひしがれ、これがためにわたしは苦しみ、むなしくふるまう。 9b ἰδοὺ γὰρ ἠφάνισταί σου τὸ μνημόσυνον ἀπὸ τῆς γῆς, υἱοὶ καὶθυγατέρες, ἐμῆς κοιλίας ὠδῖνες καὶ πόνοι, οὓς εἰς τὸ κενὸν ἐκοπίασα μετὰ μόχθων.
あなたは蛆虫とともに汚れの中に坐し、夜を戸外で過ごす。 9c σύ τε αὐτὸς ἐν σαπρίᾳ σκωλήκων κάθησαι διανυκτερεύων αἴθριος·
わたしは一日中一つ場所から他の場所へ、家から家へと地を行きめぐる。太陽が沈むのを待ちわび、わたしを打ちのめした苦労と苦痛から休息を見つけ出そうとする。 9d κἀγὼ πλανῆτις καὶ λάτρις τόπον ἐκ τόπου περιερχομένη καὶοἰκίαν ἐξ οἰκίας προσδεχομένη τὸν ἥλιον πότε δύσεται, ἵνα ἀναπαύσωμαι τῶν μόχθων καὶ τῶν ὀδυνῶν, αἵ με νῦν συνέχουσιν.
とにかく、主に向かって何か言い、それから死になさい。 9e ἀλλὰ εἰπόν τι ρῆμα εἰς κύριον καὶ τελεύτα.
このギリシャ語訳がおそらく契機となって、その一世紀後(前2世紀頃?)に『ヨブの遺訓』(The Testament of Job)と言う注解書ないしは伝記が書かれることとなった。
『ヨブの遺訓』は、ヨブ記の1-2章と、42章との主だった部分を扱い、ヨブが自分の子どもたちに自分が富と幸運に恵まれたこと、そして次にこれらを失わなければならなかった不幸を詳しく描く。とりわけ、ヨブの妻はそこで重要な役割を果たしており、ヨブ記では匿名なのに、ここではシタあるいはシティドスという名で登場する。彼女はヨブと自分自身のために骨を折り、自分の髪の毛をサタンに売ることも辞さないが、最後にはその苦労のために死んでしまう。これは聖書のある一つの題材を拡充させて見せる興味深い実例の一つと言えるが、ヨブ記が展開する神義論(theodicy)の独創性や、良く練られたその構成を捉え損なうことになる。とりわけ問題なのは、ヨブと神の対決が欠けている点である。以上述べたところから明らかなように、この作品は「聖書の焼き直し版」(rewritten Bible、後述)でもあることから、二つの文学ジャンルに属する(遺訓と焼き直し)と言える。この書の成立は紀元前1世紀か紀元後1世紀かで、もともとギリシア語で書かれたのであろう。(L.L.グレイビー教授の日本講演より抜粋 2013年7月6日東京)
2章11-13節 ヨブを慰めようとやって来た友人の導入 エリファズをはじめとする三人の友人は当初ヨブを慰めようとやって来た。しかしヨブの「呪い(嘆き)」(3章)の言葉を聞き、これが引き金となって、ヨブを慰めようという彼らの動機が背後に後退し、むしろヨブを諭そうという立場に変転する。彼等の弁論の意義は、しかし、正しいものが不幸に遭遇する時、神の支配はどうなっているのか、という問いをめぐる可能な限りの人間的なリアクションを展開しているところにある。
振り返りとまとめ
地上 一方で、地上では善良な人々の苦難が今そこにあり、それは不確定で偶然な性格を持つ。偶然に自分に与えられた命がどういう意味を持つのか。例えば、豊かさと貧しさ、西洋社会と途上国の貧困・病気の間に横たわる健康生活の相違。この世界ではどうして無益や不幸が人人々に均等に配分されていないのか。
天上 他方では、天所の舞台では、上からの超越的な神の世界を描き、神の眼差しから見ると、という問題を提供している。
神はどうしてこのような世界をお造りになったのか。世界にはあまたの悲しみや不正が満ちており、創世記1章の「神はこれを見て良しとされた」(1章10節、12節、18節、21節、25節)或は「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(31節)などとはとても言えない。この、意味に欠け、苦しみの多い世界で、人間の側ではどのように行動すべきかということが要請されているにも拘わらず、神の視点からは、その人間の悲惨や悲しみは偶然ではなく、必然であり、これに対して人間の側からは、こうした事態はあくまでも偶然であって、必然ではない筈だというリアクションが起こる。もし神の必然が決定権を持つならば、人間は神の必然に対して抗弁する位置に立てるのか。コヘレト6章10節の「人間は自分より強いものを訴えることはできない」は神と人間の間の決定的乖離の表現か。天上と地上の関係の中で、天上にある神の視点というものについて、我々は詳細を教えられず、最後の神の答え(38章-40章5節、40-41詔)を待たねばならず、その間はもっぱら三人の友人に代表される人間の側から考えられた可能な限りの答えを聞くことになる。こうして、2章が終わった時点で浮かび上がってくる問題は、不正、不幸、不運、悪が善良な人々を襲うとき、「神は何をしておられるのか」、「神と世界は(従って、神と人間)は有りうべき正しい関係にあるのか」という問いであり、これを従来は「神義論」(theodocy)と呼ぶこともあり、また「人間の苦難」がヨブ記の中心テーマはこれだという学者も少なくなかった。他方、次の3章のヨブの独白から始まるヨブの弁論の中に、人間の「傲慢」、「不遜」が問題となっており、ヒュブリス(hubris)こそヨブ記の中心テーマだとする研究もある。こうした様々な理解の仕方が、ヨブ記理解を複雑にしている。どれか一つが突出しているのか、それとも同時的に理解すべきなのか、あるいは場合によっては対照的・対立的な見解や主張がヨブ記の中に内在しているのか
ヨブの独白(3章) 呪われるべき(嘆き?)自分の誕生 ヨブは神を直接的に非難しないが、自分の誕生を徒に呪うことにより、それに近い所まで来ている ヨブはこの苦難が自分の罪の結果だとは一度も口にしない。
*ヨブ記作者は、先の1章21節と2章10節で、「神の支配」に受身で従う(敬虔)ヨブを提示したのに、ここ3章では(そしてこの後31章まで)それに対して反抗するヨブを提示する。読者はこの3章で既にどちらのヨブを自分のヨブ(像)とするかという問いの前に立つことになる。 自分の誕生を呪うヨブの態度や考えは、人間の「傲慢」「不遜」を語っているとして、ヒュブリスをヨブ記の中心テーマだと考える学者にとってこの3章はその糸口となっている。 ここで注意しておくべきポイントは、先に取り上げた、災いを被った後、1章21節で見せたヨブの敬虔な応答とうものの内容(誕生と死、神支配と神賛美)と真っ向からぶつかる内容(自分の誕生の否定、呪い)をヨブが語るという点にある。受身で敬虔であったヨブは受身の敬虔なヨブであることにとどまらず、むしろ積極的な否定者(神否定?人生否定?)として、この3章で姿を変えてゆく。もし受身で敬虔であることにとどまったなら、話のプロット(筋)は現在のヨブ記のように展開することはないのであって、ヨブ記作者はこの3章に話の展開のための重要な契機を盛り込んだことになる。先に導入された好意的な三人の友人が4書からヨブに敵対するのは、このヨブの言葉に強く誘発されたからである。 友人との対話 (4-31章) 地上と天上の関係に関する地上からの応答(response and answer)
第一ラウンド エリファズ ヨブの名誉の擁護(4章3-6節)
因果応報(4章7-9節)
神の絶対性擁護と人間の有限性(4章12-21節)
愚かな者の運命(5章2-5節)→ 因果応報
人間の悲惨(5章6-7節)
神への信頼の常態(5章8節)
神の業・属性(5章9-14節)→ 因果応報
神の不思議な業(9節)
神の自然の支配(10節)
神による逆転・反転の業(11-14節、15-16節)
神の懲らしめ(5章17-18節)
災いからの神の救済(5章19-22節)
神による福祉・安寧の付与(5章23-27節)
*エリファズの第一回の弁論(スピーチ)の根底には「因果応報」の考えがあり、その上に立って「神の正しい支配」が強調される。一読すると、彼の弁論は正統的でさえある。しかし、先読みして、エピローグ42章7節の「主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。『わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ』」という件を考慮すると、このエリファズの弁論の中に、すでに神について正しく語っていないという作者の意図が擦り込まれていることになる。小林個人としては、その問題点の一つと思われる個所を5章8節の「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」という表現に見る。その理由は、「わたしなら」というエリファズのスタンスの置き方と、これまでのところヨブが神に問題を任せていないという事と深く関係しているように思われるからである。勿論、因果応報を手軽に(?)容認するエリファズの弁論にも「正しく語らなかった」という要因がひそんでいるのであろう。
ヨブの答え 自分の苦悩の深さの吐露(6章2-3節)
*6章2節「わたしを滅ぼそうとするものを」に関するマソラ・テキストの注は והיתי (「わたしの存在)をהַוָּתִי 「わたしの滅び」と読むよう提案する。新共同訳はこの提案に従って訳されているが、「もの」という平仮名を使用しており、神のことを暗示しているのかどうか紛らわしい。もし神を暗示するなら「者」と訳された筈である。小林は「わたしの滅びを共に天秤に載せるなら」と訳す。後のヨブ6章30節参照。
自分の苦悩の原因が全能者( שַׁדַּי )によるものだという自覚(6章4節)
物の道理の比喩(6章5-7節)→ 苦悩の道理
神によるヨブ滅ぼしへの願望(6章8-10節)
*10節は殊のほか翻訳が難しい。 私訳:「そうすればわたしは慰められる。わたしが痛みの中で頑なになったとしても、聖なるお方の仰せがないがしろにされることはない」。
( כִּי-לֹא כִחַדְתִּי, אִמְרֵי קָדוֹשׁ וּתְהִי-עוֹד, נֶחָמָתִי-- וַאֲסַלְּדָה בְחִילָה, לֹא יַחְמוֹל: )
忍耐(待望)の限界(6章11-13節)
絶望時の友人への期待・川の流れに譬えて(6章14-23節)
*14節の「全能者の畏敬を失わせることになる」(新共同訳)は誰が主語なのかはっきりせず、曖昧さが付きまとう。新共同訳は伝統的な解釈に従って、前半節の「絶望している者」を主語に想定しているようだが、「失わせることになる」という使役形は原文にはなく、「彼は全能者(へ)の恐れを捨てる」が原文の意味である。原文のパラレリズムを読み取って訳すならば、「絶望する者に友が憐れみを掛けない(忠実でない)ならば、彼は全能者への恐れを捨てることになる」。つまり真の宗教とは、友に忠実(憐れみ)である、という事を言っている(そう、R.N.Whybray, Job, 52頁)。
エリファズへの皮肉・批判(6章24-30節)
*25節「率直な話のどこが困難なのか」(原文「何が弱いのか」)。ヨブの言葉の質。
*26節「言葉数が議論になると思うのか(参照、コヘレト6章11節)。絶望した者の話しは風に過ぎないのか」。ヨブの言葉の質。
*29節「わたしの正しさが懸っている」。ヨブの言葉の質。
*30節「わたしの口は滅ぼすものをわきまえていないだろうか」。先に6章2節で指摘したように、「滅ぼすもの」は人なのか(神?)、或は何かある実態なのか、理解する側にとって紛らわしい。小林は「わたしの口(口蓋)は滅びをわきまえていないだろうか」。
人生についての直喩的表現(7章1-2節) 傭兵、奴隷
ヨブの受けた苦難の様子(7章2-8節)
*3節「嗣業はむなしく過ぎる月日」、「報酬は労苦の夜」。ヨブの徒労感。
*4節「夜の長さに倦み」、「夜明けを待っていらだつ」。ヨブの焦燥感。
*5節「蛆虫とかさぶたに覆われた肉体」、「皮膚は割れ,うみが出る」。肉体の苦痛。こうした表現から、ヨブを襲った病はハンセン病と推測されてきた。
*6節「わたしの一生は機の梭(ひ)よりも速く・・」。梭は機織り機の道具の一部で経糸をくぐって一瞬のうちに緯糸を通すもの。
*7節「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを」。ヨブの哀願。誰に向かって?(神に?友人に?)
*8節「わたしを見ている目は、やがて私を見失い、あなたが目を注がれても、わたしはもういないでしょう」。原文の「あなたの目」とは誰の目か。神か。
人生の一回性と人間を取り巻く忘却の様相(7章9-10節)
神に対するヨブの抵抗(7章11-16節)死への願望
*11節「わたしも口を閉じていられない。苦悶の故に([ヘ]:「わたしの霊の苦悶」)語り、悩み嘆いて訴えよう([ヘ]:「わたしの魂の苦さの故に訴えよう」)。
*12節「わたしは海の怪物なのか([ヘ]:「わたしは海なのか」)、竜なのか([ヘ]:蛇、怪物、ワニ)。
*15-16節「わたしの魂は息を奪われることを願い、骨にとどまるよりも死を選ぶ。もう たくさんだ([ヘ]:「わたしは拒む」)。ほうっておいてください。わたしの一生([ヘ]:「わたしの日々」)はむなしいのです(ヘベル הֶבֶל 、コヘレトの重要なモティ-フ)。
一生、人の努めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた実に空しいことだ
コヘレト2章23節
人間とは何者なのか(7章17節)永遠のテーマ 詩編8編
ヨブを見張る神(7章18-21節a)地上と天上
ヨブの死願望(7章21節b)ヨブにおける死願望の意味と位置は?
エリファズの弁論とヨブの弁論の対比
エリファズの第一回の弁論は、ヨブを諭すという調子が強い。その土台となっているのが因果応報であり、神の正しい支配という考え方である。エリファズ自身が神に信頼を寄せるという点を5章8節の「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」という言葉で表現しており、この彼の表明は、続くヨブの考え(態度)との間にそれと識別できるコントラストを醸し出す。 これに対して、ヨブの弁論は、自分の苦しみの吐露、諭そうとする友人への皮肉、人生への失望、神へのある種の恨みつらみ(当てこすり)、そして死への願望が支配的である。未だ因果応報に関する際立ったヨブの考えは現れていない。ヨブは、なるほど、神の支配は認めながらも、その支配が「正しい」という点にははっきりと言及しない。が、ヨブは神に見張られているという意識によって、暗に神の正しい支配に疑問を付していると思われる。神に見張られるというのは、つらいことなのだ!ヨブの弁論は、エリファズに対する応答でありながら、基調としては、神に向けられている。
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