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​講義・講演の記録

第3回講演 正教会概要

第3回講演

正教会概要

リアナ・トルファシュ

正教会といえば何が思い起こされるであろうか。その起源が未だ謎に包まれているビザンティン・イコンの傑作、いわゆる「ウラディーミルの慈愛の聖母」(図1)。周囲の自然にとけ込み、ゴシックの伽藍とは全く異なった雰囲気を醸し出している鄙びたルーマニアの教会(図2)。その余りにも美しく魅惑的である音楽に信者の心が奪われることを恐れて、ロシア教会がミサでの詠唱を禁じたと言われる、ラフマニノフの「聖クリソストモス典礼によるミサ曲」。今日われわれがスポーツについて話し合うように,天使の性別について他愛のない論争に明け暮れたというコンスタンチノポリスの庶民たち。そして「聖山アトス」(図3)の修道士たちにより数世紀を経て今なお連綿として続けられている「心の祈り」。

こうした事実はもちろん正教会の一面を表しているが、正教会を理解するためにはさらに辛抱強い勉強が必要である。文献、視聴覚資料が豊富となった今日では、この勉強は一昔前とは異なって比較的容易である。そして何世紀ものあいだ埃に埋もれていた正教会に対する関心はようやく脚光を浴び、特にこの二十年間には多くの文献が刊行されている。

豊かな伝統をもつ正教会の理解を深めるために、本稿では次の三点について少しでも明らかにしたい。(1)他のキリスト教諸派に対する正教会の位置、(2)カトリック教会との相違、(3)正教会のいくつかの特殊な側面。

(1) 歴史の流れ: 正教会とは何か

教義を基準として見れば、今日のキリスト教は次の四派に分かれる。すなわち正教会、東方諸教会、 カトリック教会とプロテスタント諸教会。このような状況の中で正教会の立場を明らかにするには、まず正教会の東方諸教会に対する関係、次にカトリック教会に対する関係を見ることが必要である。(後になってカトリック教会から分離したプロテスタント諸教会はここでは考慮する必要はない。)

313年コンスタンチヌス大帝によってローマ帝国において公認となったキリスト教は、その五教区(ローマ、コンスタンチノポリス、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレム)の統一を強化するため、ニケアでの第1回公会議(325)で「ニケア信経」(「クレド」)が明文化され、キリスト教会は一体不可分なものになったと思われた。ところが5世紀に、キリストにおける神性と人性との関係をめぐる論争から、最初の分裂の兆しが生じた。「キリストとは、離れることもなく、しかし混合することもない神性と人性とを備えた一つの実体である」、との説を唱える教会の大勢に反対する聖職者が、次々と現れたのである。

エペソスでの第3回公会議(431)で教会はコンスタンチノポリス総主教ネストリオス(またはネストリウス)の説、すなわち「神性と人性とを備えたキリストは二つの実体である」とする説を斥け、その結果ネストリオス派のアッシリア教会(東シリア教会)が離反することになった。

「キリストには、唯一、神性のみしかない」、あるいは「神性と人性の二性が存在するとしても後者は前者に従属する」と主張する単性論に対し、カルケドンでの第4回公会議(451)は「キリストは真の神であり、真の人である」と言明することによって、単性論派の西シリア教会、コプト教会、アルメニア教会、そして少し遅れてエチオピア教会の分離を招くことになった。

「神性と人性を備えたキリストにおいて働く意志は、唯一、神的意志のみである」とする単意論に対して、コンスタンチノポリスでの第6回公会議(681)は、「二つの性にそれぞれ対応する二つの意志がある」との立場を明らかにする。その結果、単意論派であるマロン教会(レバノン)が分離する。

以上に述べた三つの公会議での結論を受け入れず離反した諸教会は、正教会とは非常に近い立場にありながら、厳密には正教会には属さず、「東方(諸)教会」と呼ばれる。しかし両者の間には根本的な典礼の相違がないこと、加えて神学論争には関わりを持たず、エジプトやシリアの砂漠で神秘体験の頂点に達した聖人たちの言葉や逸話を集めた書『砂漠の師父の言葉』と『フィロカリア』が正教会によってその重要な書物として受け入れられたことが主な原因となって、両者をまとめて「正教会」或いは「東方教会」と呼ぶような不適切な用法も見られる。

正確を期するためには、さらに「メルキト派」と「東方帰一教会」について一言述べねばならない。前者は上述のカルケドンの公会議により正教会から離反した派と違って、正教会に属する派であるが、コンスタンチノポリスの皇帝から援助を受けることによって、皇帝を意味するセム語「メレック」から『メルキト派』と呼ばれている。後者は「ギリシア・カトリック教会」とも呼ばれ、十七世紀初頭に始まる近東やヨーロッパにおけるカトリック布教活動の結果生じたもので、東方典礼に従いながらも教皇の権威を認めるなど、その折衷主義は正教会とは認められていない。

  東西ローマ帝国の分裂(395)により、すでに政治、文化、歴史の上で大きな相違を示していた西欧を代表するローマ教会と東方を代表するコンスタンチノポリス教会は、再び神学上の理由、つまり聖霊の出所をめぐる解釈の相違を原因に分離する。ニケアの第1回公会議で定められた「クレド」では、聖霊は「父から発出する」とされているが、スペインやフランクの聖職者はこの句に「息子から」を意味する「フィリオクゥエ」を加え、「父と息子から発出する」と改竄した。神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ二世は、ローマでの戴冠ミサ(1014)において「クレド」に「フィリオクゥエ」を加えることを強要した。分離が決定的となったのは1054年であるが、それ以後、カトリック教会と正教会という名称が用いられるようになる。正教とは文字通り「正しい教え」を、つまり最初の七つの公会議での主張、教父たちの教え、そして初期キリスト教会の「使徒の伝統」に忠実であることを意味する。

まとめて言うなら、現在正教会として認められているのは、次の諸教会である。まず歴史的な教会、つまりコンスタンチノポリス(イスタンブル)やエルサレムの正教会(信徒がほとんどない教会)、ギリシア、スラブ民族系国家(ロシア、ブルガリア、セルビア、ウクライナ)、ルーマニアやグルジアの正教会(信徒が国民の過半数の国)、また近世になって西洋、アメリカ、アジア諸国などにも設立された正教会(たとえば日本の正教会)などなどである。

(2) 正教会とカトリック教会の相違

しばしば正教会とカトリック教会の相違は両者によって誇張されていると言われ、実はその基底にあるものは両者を取り巻く自然・文化環境及び教会と政治とのかかわりの結果であると言われる(正教会の僧が髭をたくわえる習慣などはその一つの例と言ってもよかろう)。しかし最も重要な相違は、教義、典礼、教会の構成やその活動に関する相違である。実は1054年の東西教会分裂の契機となった「フィリオクゥエ」は、カトリック教会にとっては最初の革新であり、それ以後もカトリック教会は多くの革新や変更を行い、両者の差異は分裂当時よりも更に大きくなっている。

教義上の相違

「なぜ神は人間になったのか」。キリスト教の本質に関わるこの問いに対して、西欧の教会は「人類の原罪を贖罪するためである」と答える(聖アウグスティヌス、聖アンセルムスなど)。この答えに従えば、アダムの堕罪からキリストの受肉に至る間は、一人の人間も救われず、そしてキリスト教以外には人類には救いの道はないことになる。東方はこの解釈を完全に否定するわけではないが不十分であると考える。この問いに対して東方は答えて次のように言う。「神が人になったのは、人が神になるためである」(聖アナスタシオス、聖グレゴリオス・パラマスなど)と。正教会は原罪そのものを「神からの遠ざかり」と考えており、キリスト教の場合はキリストによって開かれた道を経て、聖霊によってこの世にありながら既に人の神化(テオーシス)の可能性があるという立場に立っている。従って正教会では、その最終目的である人の神化のモデル例として復活が特に重要視される。これに対してカトリック教会では、堕罪による罪をキリストの仲介により償うための贖罪に重点が置かれ、それゆえ受肉、降誕祭(クリスマス)およびキリストを礼拝することを究極目的にすることが強調されている。

「フィリオクゥエ」を加えることにより、つまり聖霊がキリストとしての「子」からも発出することを主張することにより、カトリック教会は三位一体をある意味では「人間的」視野から考え、一方、永遠的に「父」より発出するとする正教会はそれを「神的な」視野から捕らえている。また贖罪の場合と同じく、「フィリオクゥエ」を主張することでカトリック教会は、「キリスト教の外には聖霊はない」との排他的態度に陥っている。

次に問題となるのが、カトリック教会の主張するマリアの無原罪懐胎と教皇の不可謬性である。これによって1054年に生じた東西教会の分裂の溝はますます埋めることが難しくなった。マリアの無原罪懐胎を認めると、正教会の目的である「人の神化」への道が塞がれてしまう。なぜなら正教会にとって神化の原形であるマリア自身が無原罪の人であるとするならば、人の神化は「予め定められている」人に限られていることになるからである。次に教皇の不可謬性であるが、正教会では不可謬性は人間である特定の聖職者や教導者に関するものではなく、教会そのものに与えられたものとする。

両教会間の教義的相違の中から最後にもう一つの例を挙げる。カトリック教会におけるスコラ哲学のような、キリスト教教義に対するいわば合理的なアプローチは正教会には生まれなかった。

典礼上の相違

本来カトリック教会の典礼(ローマ典礼)と正教会の典礼(ビザンティン典礼)は、祈祷の文言がほぼ同一であるという点では大きな相違はない。異なるのは、まずは祈祷に伴う司祭の儀礼的ジェスチュアーである。次は祈祷を唱える声の大小である。ビザンティン典礼では、「ニケア信経」と「主の祈り」(「クレド」と「パテル」)だけが普通の声で唱えられ、それ以外は小声でつぶやかれる。

その他、典礼の内容に直接関係した相違としては、東西教会分離以前に既にあったもの、分離以後カトリック教会によって変更改新されたものがあるが、その中から幾つかの例を挙げる。

ビザンティン典礼では、聖体拝領のため中央に十字架の精巧な模様を施された酵母入りの丸いパンを信者が造って提供する。このパンを規則にしたがって割くことはキリストが犠牲となったことの象徴であり、それ自身ひとつの儀礼である。これに対しローマ典礼では、聖体拝領のためにあらかじめ一人一人のための酵母の入っていない「ホスティア」が聖職者によって作られている。

信徒の提供したパンを聖別するために、ビザンティン典礼では聖変化の唯一の執行者とされる聖霊への呼びかけ(「エピクレーシス」)が行われる。ローマ典礼では4世紀以降は「呼びかけ」なしに聖別が行われる。ただしヴァティカン第2公会議(1969)以降は、ローマ典礼においても、「エピクレーシス」は随意導入することができるようになった。

ビザンティン典礼では、聖職者も信徒もパンとワインという二つの形で聖体を拝領する。ローマ典礼では12世紀以降、ワインは聖職者に限られている。

教会組織に関する相違

多かれ少なかれ重要な、あるいは些細な相違があるが,その中からいくつかの例をあげる。

カトリック教会では、すべてが教皇の管轄下にあり、一定の法的な組織制度をもっているのに対して、正教会では各地方教会はそれぞれの自治権をもち、「アウトケファレス」、すなわち自主的と呼ばれている。カトリック教会の教皇のように教会全体を統率する首長は正教会にはなく、ただ伝統としてコンスタンチノポリスの総主教に名誉上の「世界総主教」という称号がおくられた。つまりコンスタンチノポリス陥落以後も世界総主教は聖庁なしに存続した。しかし彼は地方の主教の任命はせず、彼だけが聖別式に用いる没薬(「ミルラ」)を造る権利を持っていて、この没薬を他の主教たちに送るに止まった。

カトリック教会では聖職者には妻帯が禁じられているが、正教会にはこのような拘束は一切ない。 それどころか正教会の教会法は次のように述べる。「神は男と女を創られ,妻帯や肉食や飲酒をすべて良いものとして与えられた。もし主祭、僧、助祭が苦行する目的ではなく、嫌悪によってそれらを避けるのであれば、それは「創造」に対する冒涜であり,当人は僧職を解かれ破門されて然るべきである。平信徒といえども同様である」と。

正教会には多くの修道院があるが、カトリック教会におけるベネディクト会、ドミニコ会、フランシスコ会、イエズス会などのような、会ごとの特定の規律をもった修道会は存在しない。

カトリック教会においては、異端者や魔女に対して火刑などの刑罰を伴う宗教裁判が特に13世紀以降頻繁であったが、正教会では宗教裁判はなく、公会議による破門という信仰上の制裁に止まった。

(3) 正教会の特殊な側面

イコン、「無限に向かって開く窓」

6世紀頃から、いわゆる偶像破壊運動が終結を迎える9世紀の中期まで(843)の期間、イコンの歴史は多くの曲折を経てきた。しかしニケアでの第7回世界公会議(787)において、イコンは祈りと観想の支えであり、神の恩寵を表す最適な場であることが認められると、それ以来幾度かの反対運動があったものの、今日に至るまでイコンは正教会とは切っても切り離すことのできないものとなっている。西方においても、東西教会分裂(1054)以後もしばらくはイコン芸術は続けられたが、ルネッサンスの到来とともに消滅した。現今美術愛好家の注目をあつめているのは、ロシア・イコンであるが、それは14・15世紀にかけて目覚ましい発展を経たものである。しかしロシア・イコン芸術は、1000年ごろキリスト教に改宗したロシアにビザンティンの僧たちによって伝えられことに遡り、当初のビザンティン・イコンの伝統がその活力となって働いていることを忘れてはならない。またビザンティン・イコンの伝統はその後、ギリシア、ブルガリア、セルビア、ルーマニアなどの他の地区の正教会にも伝えられた。

イコンの目的は、何よりも先ず「人となった神」キリスト、そして聖母、聖人、殉教者、預言者などの「神になった人」を、「写実的にではなく」表象することである(正教会では三次元の立体像などをその写実性のゆえに認めない)。この原則がイコンのすべてを支配する。たとえば、くすんだ色彩と縦長の容姿により描かれた人物は「この世のものではないこの世のもの」となる。自然の光線を想起させる陰影は避けられ、イコンは神的な光に浸される。消失点を画面の中におく通常の遠近法に代わって、その消失点を見る信者の中に置く逆遠近法がたびたび採られる。それによって信者がイコンを見るよりも、むしろイコンが信者を見つめ、彼らの心にその恩寵を与えようとしているのである。そしてもう一つ重要なことは、特定の人物(キリスト、聖母など)を描く複数のイコンが、細かい点では互いに相異なっていながら、厳然とした共通性を保っていることである。それはイコンにはすべて「アルケタイプ」があるからであり、特にキリストや聖母の場合には「アケイロポイエトス」(人間の手によって作られたものではない)と考えられている。宗教芸術の極致、正教会の典礼には不可欠なイコンは、まさに「心の目」をもって眺める者には「無限に向かって開く窓」なのである。 

聖堂のシンボリズムとイコノスタシス

すべての建築様式がその歴史をもつように、正教会の聖堂もその歴史を持っている。しかしここではその歴史ではなく、現在正教会の聖堂が示す三つの要素、すなわち聖堂の方位、丸天井及びそれに対応する水平面の象徴的なかつ神学的な意味と、いわゆるイコノスタシス(聖画壁)の意味と役割について若干のことを述べたい。

聖堂の方位は、すべてのキリスト教教会に関してほぼ共通するが、正教聖堂は更に厳格である。聖堂は、祭壇が建物の東に位置し、入口は西に面するように建てられている。こうした方位は神学的な意味をもち、東は神の光のシンボルであると同時に、信者が向かう「永遠の日」の夜明けを意味する。

聖堂の全体の水平面は、一般的にギリシア十字(横木と軸木が同じ長さで構成され、両者は中央で交差している十字形)を示す(図5)。つまり信徒が集まり、祈りを捧げるため、「ナオス」と呼ばれる場は、一般的に正方形である。その東に突き出る聖域の中では、聖職者が儀礼を行う。またその西に突き出る場は、そもそも未洗礼者のための場だったが、現在は「玄関」の役割を果たす。そして南北両側にも同じ大きさの突出部を加える。

位置的には、丸天井に覆われた「ナオス」は、「天」(丸天井)が「地」(「ナオス」)に降り、一体となるという大宇宙のシンボルであると同時に、「地上に降り、天(神性)と地(人性)を繋ぐ」ことを己のうちに成就したキリストの神学的シンボルでもある。一方、聖堂の水平面を決定するギリシア十字は、「すべてを造った」神のロゴスとしてのキリストの、そして同時に小宇宙としての人間のシンボルでもある。ゴシック式の聖堂ではたとえば、その水平面を決定するのはラテン十字(縦長の十字形)である(図6)。この場合一見して分かるように、それは十字架に架けられたキリストのみのシンボルとなり得るが、これはカトリック教会がキリストの歴史的側面を強調していることと無関係ではない。

正教教会独自の特徴は、信徒が祈りを捧げる場と、聖域(主祭と助祭のみに立ち入りが許されている場)とを区切る聖画壁(「イコノスタシス」)(図4)である。既に10世紀のビザンティン教会にも一種の柵は見られたが、「イコノスタシス」は14世紀にロシアから正教会に導入され、次第に全正教教会に広まった。丈も高く天井にまで達するこの壁には、時には五、六列に及ぶイコンが並べられる。配置には一定の規則があり、下から二列目に置かれた「全能主のキリスト」を中心に、教会の歴史あるいは、天界への繋がりを示す天使、使徒、殉教者、教父、聖人のイコンが並べられる。しかし聖画壁の第一の目的は、イコンを並べるためではなく、聖域を仕切るためである。事実、正教会にとってはパンと葡萄酒の奉献と聖霊への呼びかけは衆人の目のからは隠された、文字通りの秘蹟(「ミュステリア」)なのである。

神秘思想:聖山アトスと「心の祈り」

テサロニキの東に突き出す三つの半島の一番東に位置するアトス山は、正教神秘思想や神秘体験の中心である。

アトス山は古くから聖山である。ホメロスもその名を挙げ、アイスキュロスもゼウスの住居と述べている。沈黙の中、何世紀もの間、半島に聳えるこの山は、キリスト教神秘思想の避難所「救済の港」であり、キリスト教文化の花開く「神の庭園」であった。そこに住居を定めた幾つもの修道院により、アトス山は特に10世紀以来正教会の聖地となっている。既に7世紀以来、アトスにはイスラムの侵攻によりカッパドキアの岩山やエジプトやシリアの砂漠から避難してきた隠者や修道僧の住居となった。従ってここで開花した神秘思想は直接に「砂漠の師父たち」の継承であり、その伝統は4世紀から現代まで途絶えることなく続いている。 

885年、東ローマ帝国の皇帝バシレウス一世(867-886年在位)の勅令により、僧のみがアトス山に住む権利を得た。現在も認められている自治行政区としてのアトスの地位は963年、信仰心の篤かった皇帝ニケフォロス・フォカス(963-969年在位)と彼の友であり聴罪僧であったアトスの聖アタナシイオスとの配慮による。僧の生活を規制する規則集を初めて作成したのも後者である。その後1046年に僧院の共同生活を規定する新たな規則が書き加えられた。今日も厳しく守られている聖山アトスの規則、例えばこの半島に女人、雌の動物を持ち込むことを禁じた規則は、すべてこれらに遡る(ただし猫だけは例外であったそうである!)。

アトスの大きな僧院はすべて教会分裂以前、10世紀に建てられた。990年頃には大勢のベネディクト派修道僧がここで集団生活を始め、約三世紀にわたって留まり,この修道生活の聖地では教会の分裂にもかかわらずキリスト教会の統一は保たれ、あたかもまだローマとの和解の道が閉ざされていないかのような感をあたえた。しかし第四次十字軍(1203~1204)がコンスタンチノポリスを侵攻し、同じキリスト教徒でありながら、建設以来まだ一度も外国人に占領されたことのないこの「神に保護された都」を破壊し、教会を汚し、ギリシア教父たちの聖なる遺物をゴミ捨て場に投げ入れ、あまつさえキリストの遺物を略奪するにおよんでは、両教会の間の始めの教義に関する溝は憎しみに代わっていった。そしてこの時からアトス山は、「正教会の砦となり、ローマの侵略を裁く論壇となって、初期の教父たちの伝統と最初の七つの公会議での主張を固守しよう」との声を挙げた。

しかしなんと言っても、アトス山への召命は「ヘシカスム」(静寂主義)の中心となることであった。

「ヘシカスム」とは何であろうか。この語はヘシュキア「静寂、沈黙、平安」を語源とし、ある精神的な求道法のことである。ただしここでの「平安」は心の平安、「すべての思い、たとえそれがよいものであってもすべてを断ち切る」(ポントスのエウアグリオス)ことを意味する。つまりヘシュキアは、神化に至るために必要な心の状態なのである。そしてこの目的に達するために、ヘシカスムが「心の祈り」あるいは「イエスの祈り」をその手段とするのである。

心の祈りは一つの原理、すなわち神を想起することと、一つの方法、すなわちイエス(神)の名を連祷し、「イエスを光として、エネルギーとして」(グレゴリオス・パァマス)心に定着させることをその基礎とする。最も広く用いられている連祷の句は「主イエス・キリストよ、わたしを憐れんで下さい(キリエ・クリステ、エレイソン・メ)」である。ただしヘシキスト「静寂神秘家」にとっては「わたしを憐れんで下さい」は、同時に「わたしに汝の聖霊を与えてください」をも意味する。この句の出所は新約聖書を出典としている。 「神よ、罪人であるわたしを憐れんで下さい」(ルカ18:13)、「ダビデの息子であるイエスよ、わたしを憐れんでください」(ルカ18:38)。(ちなみに、「ダビデの息子」とは「神の子」であることは、キリスト教徒であればすぐに分かることなのである)。これらの句には聖書では命令を伴っている。「休むことなく常に祈ることが必要である」(ルカ18:1)。聖パウロはこの言葉を受けて言う。「絶え間なく祈れ」(テサロニケの信徒への手紙 I 5:17)。

絶えず「神を想起すること」も、教父たちによって繰り返し述べられている。「呼吸よりも頻繁に神を想起しなければならない」(ナジアンザのグレゴリオス)、「常に神のことを思い起こしなさい、神があなたのことを思い起こすように」(ニニヴェのイザアク)、「常にイエス・キリストの名の中に留まりなさい。あなたの心が主を飲み、主があなたの心を飲むように。そうしてこの二つが一つになるように」(ヨハネ・クリソストモス)、「完全さの終点とは次のようなものである。魂は毎日、至高な聖なるものに登り続けねばならない、その命のすべてが、心のすべての鼓動が唯一の、絶え間のない祈りとなるまで」(カッシアヌス)。祈りを絶え間なく唱えること、それは自分の息と「神の息」とを混ぜることである。「息をするように神を思い出し、息をするより頻繁に神のことを考えねばならない」(ヘシュキオス)、「息をするごとにイエスを思い起こせ。そうすればあなたは平安(「ヘシュキア」)の助け(功徳)を知るであろう」(ヨハネ・クリマコス)。

息をするように祈る、心の鼓動に合わせて祈る、これが完全な心の平安へ至る最も確実な道である。常に繰り返されて、祈りは聖霊を心に降りてこさせる――祈る者の心、彼の内の最も奥にある砦を神の玉座にすることにより。祈りは人に徐々に教える――彼が呼び求めているものが、実は彼自身であり、彼の内にあることを。祈っているのは神であったのだ――というのは「ヘシカスム」の教えでは、名を呼ぶことは呼ばれた者を心に実在させるのであるから。そしてこれに至るには、師が弟子に、呼びかける「名」や祈りの言葉を直接に教えなければならないし、恩寵の助けが必要である。

「ヘシカスム」の伝統は二つの選集に収められている。一つは5世紀末に選ばれ、後にアトス山で丁重に保管されてきた「砂漠の師父の言葉」であり、4・5世紀の教父たちの体験を記したものである。 もう一つは「フィロカリア」と呼ばれ、前者のテキストと一部は重複するが、それ以外に4世紀から14世紀に至る千年間の長きにわたって、ヘシカストの偉大な師、高名な神学者から一介の僧に至る人々のテキストを含む。初版(ギリシア語)は、コリントスのマカリオスと聖山(アトス)のニコデモスによってベネチアで刊行された。この刊行によりギリシアとモルダビアではヘシカスムの目覚ましい再興が起こった。この間「ヘシカスム」の伝統は、中断されているかのようであったが、グレゴリオス・パラマスが教義を確定させた14世紀と、そして18世紀に、二度の大きな回生を見た。「フィロカリア」によって「ヘシカスム」は初めて陽の目を見た。十六年間をアトスで過ごしモルダビアに在住するロシアの修道僧ウェリチコフスキーのロシア語訳はロシアで刊行された(1793)。19世紀の偉大なるサーロフの聖セラフィムや感動的な「ロシア巡礼者の物語」などのおかげで、「ヘシカスム」や「心の祈り」はより良く知られるようになった。

最後に、終わりの言葉として、「砂漠の師父の言葉」から次の有名な金言の一つを挙げる。 「僧にとり、祈りの適度とは,度を無視して(無限に)祈ることである。」

参考文献

『東方正教会』 著者:オリヴィエ・クレマン 訳者:冷牟田修二・白石治朗 白水社1977年 『砂漠の師父の言葉』 著者:不詳 ミニュ・ギリシア教父全集第65巻 訳者:古谷功 あかし書房1986年 The Holy Spirit: Eastern Christian Traditions, Stanley M. Burgess, Hendrickson Publishers, 1989

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