第12回講義 ヨブ記 ー三度、ヨブ記についてー
- 小林 進
- 2014年12月5日
- 読了時間: 19分
第12回講義(2014年12月6日)
ヨブ記 ー三度、ヨブ記についてー
ナザレ研修会 第12回 2014年12月6日 ナザレ修女会於 小林進
第一回弁論 エリファズ(4-5章) エリファズの最初の言葉は「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるであろうが、誰がものを言わずにいられようか」であって、彼に続くビルダドに比して穏やかであり、ツォファルの辛辣さとは大いに異なる。彼はまずヨブの名誉を擁護し(4章3-6節)、次いで因果応報(4章7-9節)を述べる。エリファズの弁論の構成は次のとおりである。
神の絶対性擁護と人間の有限性(4章12-21節) 愚かな者の運命(5章2-5節)→ 因果応報 人間の悲惨(5章6-7節)
神への信頼の常態(5章8節) 神の業・属性(5章9-14節)→ 因果応報 神の不思議な業(9節) 神の自然の支配(10節) 神による逆転・反転の業(11-14節、15-16節) 神の懲らしめ(5章17-18節) 災いからの神の救済(5章19-22節) 神による福祉・安寧の付与(5章23-27節)
*エリファズの第一回の弁論(スピーチ)の根底には「因果応報」の考えがあり、その上に立って「神の正しい支配」が強調される。一読すると、彼の弁論は正統的でさえある。しかし、先読みして、エピローグ42章7節の「主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。『わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ』」という件を考慮すると、このエリファズの弁論の中に、すでに神について正しく語っていないという作者の意図が擦り込まれていることになる。小林個人としては、その問題点の一つと思われる個所を5章8節の「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」という表現に見る。その理由は、「わたしなら」というエリファズのスタンスの置き方と、これまでのところヨブが神に問題を任せていないという事と深く関係しているように思われるからである。勿論、因果応報を当然のように前提するエリファズの弁論にも「正しく語らなかった」という要因がひそんでいるのであろう。
ヨブの答え(6-7章) ヨブはまず自分の苦悩の深さを吐露する(6章2-3節)。6章2節の「わたしを滅ぼそうとするものを」に関するマソラ・テキストの注は והיתי (「わたしの存在)を הַוָּתִי 「わたしの滅び」と読むよう提案する。新共同訳はこの提案に従って訳されているが、「もの」という平仮名を使用しており、神のことを暗示しているのかどうか紛らわしい。もし神を暗示するなら「者」と訳された筈である。小林は「わたしの滅びを共に天秤に載せるなら」と訳す。後のヨブ6章30節参照。
更にヨブは自分の苦悩の原因が全能者( שַׁדַּי )によるものだという自覚(6章4節)を示し、神によって自分が滅ぼされることを願望する(6章8-10節)。10節は殊のほか翻訳が難しい。私訳:「そうすればわたしは慰められる。わたしが痛みの中で頑なになったとしても、聖なるお方の仰せがないがしろにされることはない」。( כִּי-לֹא כִחַדְתִּי, אִמְרֵי קָדוֹשׁ וּתְהִי-עוֹד, נֶחָמָתִי-- וַאֲסַלְּדָה בְחִילָה, לֹא יַחְמוֹל: )
またヨブは自分が忍耐(待望)することには限界があり(6章11-13節)、川の流れに譬えて、絶望時こそ友人に期待がかかることを述べる(6章14-23節)。14節の「全能者の畏敬を失わせることになる」(新共同訳)は誰が主語なのかはっきりせず、曖昧さが付きまとう。新共同訳は伝統的な解釈に従って、前半節の「絶望している者」を主語に想定しているようだが、「失わせることになる」という使役形は原文にはなく、「彼は全能者(へ)の恐れを捨てる」が原文の意味である。原文のパラレリズムを読み取って訳すならば、「絶望する者に友が憐れみを掛けない(忠実でない)ならば、彼は全能者への恐れを捨てることになる」。つまり真の宗教とは、友に忠実(憐れみ)である、という事を言っている(そう、R.N.Whybray, Job, 52頁)。
続けてヨブはエリファズへの皮肉・批判(6章24-30節)を述べる。25節「率直な話のどこが困難なのか」(原文「何が弱いのか」)。26節「言葉数が議論になると思うのか(参照、コヘレト6章11節)。絶望した者の話しは風に過ぎないのか」。29節「わたしの正しさが懸っている」。30節「わたしの口は滅ぼすものをわきまえていないだろうか」。先に6章2節で指摘したように、「滅ぼすもの」は人なのか(神?)、或は何かある実態なのか、読者にとって紛らわしい。小林としては「わたしの口(口蓋)は滅びをわきまえていないだろうか」と訳したい。 続くヨブの弁論構成は以下のとおりである。 人生についての直喩的表現(7章1-2節) 傭兵、奴隷 ヨブの受けた苦難の様子(7章2-8節) 「夜の長さに倦み」、「夜明けを待っていらだつ」(7章4節)。ヨブの焦燥感。 「蛆虫とかさぶたに覆われた肉体」、「皮膚は割れ,うみが出る」(7章5節)。こうした肉体の苦痛 表現から、ヨブを襲った病はハンセン病と推測されてきた。 「わたしの一生は機の梭(ひ)よりも速く・・」(7章6節)。梭は機織り機の道具の一部で経糸をく ぐって一瞬のうちに緯糸を通すもの。 「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを」(7章7節)。ヨブの哀願。誰に向かって ?(神に?友人に?) 「わたしを見ている目は、やがて私を見失い、あなたが目を注がれても、わたしはもういないでしょ う」(7章8節)。原文の「あなたの目」とは誰の目か。神か。 人生の一回性と人間を取り巻く忘却の様相(7章9-10節)
神に対するヨブの抵抗(7章11-16節)。死への願望 「わたしも口を閉じていられない。苦悶の故に([ヘ]:「わたしの霊の苦悶」)語り、悩み嘆いて 訴えよう([ヘ]:「わたしの魂の苦さの故に訴えよう」)」(7章11節)。 「わたしは海の怪物なのか([ヘ]:「わたしは海なのか」)、竜なのか([ヘ]:蛇、怪物、ワニ )」(12節)。 「わたしの魂は息を奪われることを願い、骨にとどまるよりも死を選ぶ。もうたくさんだ([ヘ]: 「わたしは拒む」)。ほうっておいてください。わたしの一生([ヘ]:「わたしの日々」)はむ なしいのです」(15-16節)。ここでのヘベル הֶבֶל は、コヘレトの重要なモティ-フの一つ である。「一生、人の努めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた実に空しいことだ」( コヘレト2章23節)
人間とは何者なのか(7章17節)永遠のテーマ 詩編8編 ヨブを見張る神(7章18-21節a)地上と天上 ヨブの死願望(7章21節b)ヨブにおける死願望の意味と位置は?
*エリファズの弁論とヨブの弁論の対比 エリファズの第一回の弁論は、ヨブを諭すという調子が強い。その土台となっているのが因果応報であり、神の正しい支配という考え方である。エリファズ自身が神に信頼を寄せるという点を5章8節の「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」という言葉で表現しており、この彼の表明は、続くヨブの考え(態度)との間に幾らか際立ったコントラストを醸し出す。 これに対して、ヨブの弁論は、自分の苦しみの吐露、諭そうとする友人への皮肉、人生への失望、神へのある種の恨みつらみ、そして死への願望が支配的である。未だ因果応報に関する際立ったヨブの考えは現れていない。ヨブは、なるほど、神の支配は認めながらも、その支配が「正しい」という点にははっきりと言及しない。が、ヨブは神に見張られているという意識によって、暗に神の正しい支配に疑問を付していると思われる。神に見張られるというのは、つらいことなのだ!ヨブの弁論は、エリファズに対する応答でありながら、基調としては、神に向けられている。
シュア人ビルダドの弁論(8章) ビルダドはまずヨブに対して「いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ」(8章2節)と詰って牽制する。そして神(全能者)は正義の神であり、その神への信頼を説きつつ(8章3、5、6節)、神は因果応報の神であるという考えによって、ヨブに起こった出来事を理解しようとする(8章4、6、11-22節)。その際、ビルダドはヨブの息子等は罪を犯したから罰せられたのであり(8章4節)、ヨブ自身も過去に罪を犯した(8章5-7節)と見なされる。伝統主義に依拠する者は往々にして、人間の経験と、伝統的な考えや教説が折り合わない状況に晒されると、伝統的な考えや教説に優先順位を置き、人間の経験を伝統的な考えや教説に順応するように押し込めるのであって、ビルダドの場合がそれであり、その逆ではない。
ヨブの弁論(9-10章) 神の世界(宇宙)支配による人間超絶(9章1-13節)と、神の人間支配における人間超絶(8章14-24節)に関してヨブは同意する。すなわち、ヨブもまた伝統的な応報思想に立っている。しかし、此処でヨブは自分の正しさを主張し始め(8章15、20節)、人間的な物差しから判断して神は公平でない点に言及する(8章22-24節)。自分の人生が矢のように(飛脚、葦の小舟)早いことを振り返り(8章25-26節)ながら、自分の正当性を主張する(8章27-35節)。その際、仲裁者による調停の願望に触れる(8章33-34節)。生きることを厭う(9章21節)弱気なヨブだが、自分の正しさを主張して、神の不公平さを主張する(9章35節)。ヨブはまた後に38章でなされる神の弁論を先取りするような形で、宇宙創造の圧倒的で、人間が及びもつかないも神の創造的な力に言及する(9章5-10節)。ここがヨブと友人たちの弁論を分ける一つの指標であり、これ以後ヨブも友人も創造世界にいかなる関心をも向けず人間の世界のみに集中する。 また、神を「看守」になぞらえ(10章14節)、もし因果応報の世界を遵守する神ならば、ぞれを守らない神とは身勝手な「看守」ではないかという非難を投げかける。ヨブは神の攻撃に対してなすすべがないことを訴え、自分への攻撃を止めて、再び立ち直らせてほしいと訴える(10章20節)。
*三度「利益もないのに(理由もなく、無駄に、いわれなく、無料で)」(1章9節、2章3節、9章17節)(הַחִנָּם )について 「神は髪の毛一筋ほどのことで私を傷つけ 理由もなく( הַחִנָּם )わたしに傷を加えられる(9章17節)」 。1章9節では、サタンがヨブの信仰に疑義を投げる形で「利益もないのに」ヨブは神を信じるだろうかと語られ、その後2章3節では神がサタンの疑義に誘発されて(そそのかされ)、「理由もなく」あるいは「いわ れなく」ヨブを破滅させようとしたことが神の口から語られる。 三度目の9章17節では、ヨブの口から、神のまったく独断的な、専横的な振る舞いが語られ、神はすべてのものを全く自由に、場合によっては創造の目的を確認することが出来ないほどまでに、無駄に(いたずらに)創造した、と神を非難する。神は自分(ヨブ)をいわれなく苦しめると同時に、他者をもいわれなく苦しめ、かついわれなく報いる(良く)のであって、これは、ヨブにとって創造のロジック(logic道理、良識、必然性)が崩壊し、「ある一つの善行は、別の善行を受けるに値する(情けは人のためならず。巡り巡って己が身のため)」(one good turn deserves another)が機能しないことを意味する。道徳を基礎とする応報の考えは容赦なく崩壊してしまうのである。 ヨブはこれを確信しまたそう信じもするのであるが、しかし、彼は尚も道徳を基礎とする応報の考えを捨てることが出来ず、神と人間の関係においてこの合理的な原則(道徳を基礎とする応報の考え)を回復することを願う。しかし果たしてこの回復は可能であろうか。それが可能でとなるには、神が「人間の視点」と「人間の限界」をご自身の内に共有することによって始めて可能となるのであり、ヨブはこれを文字通り神に問うのである。「あなたも肉の目を持ち、人間と同じ見方をなさるのですか。人間同様に一生を送り、男の一生に似た歳月を送られるのですか」(10章4-5節)。果たして、神と人間は同じ限界を共有しているのか。神と人間は同じ波長で互いに交わることが出来るのか。人間は人間の目で(尺度)神を見ることが出来るのか。もし人間が人間の目で神を見るなら、人間は神を見ることによって、自分が考えていた以上の何かを見ることになるのか、それとも、その逆を見ることになるのか。 ヨブは伝統に従って、神を正義の神と理解してきた。その神とは人間の基準と価値に則って裁き行動する神である。またヨブは、神の創造の秩序は、伝統的な考えや人間の省察によって理解できる秩序であると考えてきた。しかし、突如としてヨブは、この創造と秩序を人間は把握することが出来ないことを発見し、人間が自分の寸法に仕立てることの出来ないものであって、人間を圧倒し、人間を打ちのめす。 神の行為が全くの気まぐれであり、それは理由もなく、いわれもないもの、(すなわちהַחִנָּםである)という考えを拒否していたヨブが、神に関する自分の考えやイメージそのものがいわれのないもの、הַחִנָּםであることを発見する。 今やヨブは、道徳を基礎とした伝統的な応報の考え方が破産しようとする分岐点に近づく。 しかし、この伝統的な考えが破産してからもなお、ヨブは問題を諦めずに友人と論争を続ける所に、友人に勝ってヨブが洞察を深めていく所以がある。
ナアマ人ツォファルの弁論(11章) ツォファルの弁論の冒頭はビルダドと同様、ヨブを詰ることから始まるが、彼の論調はビルダド以上に激しくかつ辛辣である。「これだけまくし立てられては答えないわけにいくまい。口がうまければそれで正しいと認められるだろうか。あなたの無駄口が人々を黙らせだろうか。嘲りの言葉を吐いて恥をかかずに済むだろうか」。エリファズやビルダドの言葉は未だ控えめであり、紳士的であったと言うべきか。 エリファズはヨブは無罪だと見なし、ビルダドはヨブの息子等は罪ありとした。これに対してツォファルは、ヨブは明白に罪を犯したのだと見做し(11章6節b、14節)、罪を悔い改めるよう勧告する(11章13-14節、15-19節)。また神については誰もその神秘を極められないと言うが、自らはそれを知っていると思い込む(11章7-11節)。これはエリファズが友人たちの権威と知識に言及し、ビルダドが自分以前の世代の人々の権威に依拠したのとは異なり、ツォファルは神の権威に訴えるのであり、誰も神の道を推測できないが、自分だけはそれを知っているのだと自負する信仰者特有の慰め方でもある。 やがて、ツォファルの意図がヨブを慰めようとするのではなく、むしろヨブを断罪しようとすることにあることが、彼の第二の弁論(20章)で明らかとなる。
ヨブの弁論(12-14章) ビルダドに対するヨブの先の弁論は、ツォファルにとっていわば「お喋り」でもあるかのように見なされ、非難されたことになるが、果たしてヨブはそれに気が付いているのだろうか。今回のこの長い弁論で、ヨブはこれまでの議論(第一ラウンド)を纏めるかのような感がある。 まず、ヨブは皮肉に満ちた、嘲りの言葉で弁論を始める。 確かにあなたたちもひとかどの民。だが、知恵はあなたたちと共に死ぬ、( וְעִמָּכֶם, תָּמוּת חָכְמָה 、新共同訳と異なる)。あなたたちと同様、わたしにも心があり、あなたたちに劣ってはいない。だれにもそのくらいの力はある。(12章2-2節) 続けてヨブは素朴で抒情的な創造賛歌のミニ版とも言うべきものを述べることになるが、これを理解するためには、(そしてこのところがわれわれ読者にとって非常に難しい)、今やヨブの言葉は友人の弁論に対する皮肉の脈絡(文脈)の中にあるということを想起すべきで、単純に神の創造を讃美しているのではないことに注意すべきである。 獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。 空の鳥もあなたに告げるだろう。 大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。 海の魚もあなたに語るだろう。 彼らは皆知っている。主の御手がすべてを造られたことを。(12章7-9節) 友人たちは、この世界に対する神の関わりは単純であって、自分たちが語るロジックに一致しており、(それこそ獣や魚、そして大地さえもそれを理解できるほどで)、因果応報の考えは自然の法則でもあり、生きとし生けるものはそのロジック、法則によって生きているのだと言って、ヨブを諭そうとした。これに対して、ヨブはこの創造賛歌を語ることによってまさに、友人たちの主張に対応しながら(呼応しながら、と言ってもよい)、彼らの主張が陳腐な知恵に過ぎないことを暴露する。なぜなら物事、事物の存在や意味(有意)が全く神に依拠するというなら(友人たちの定立であり、ヨブも然り。テーゼ、These)、その神は自分の欲するようにすべてを行うことが出来るのであって、続く12節からヨブはその神の行為を列挙し、一つとして最初一見した所に止まるものはなく、単純な創造観や、伝統的な応報思想から説明しようとする説明に勝って、すべては非常に複雑だということを述べる。ヨブも友人同様神の創造を信じているが、友人たちが創造と創造の秩序とをいとも単純に結びつけること、また道徳の秩序と創造の秩序を単純に結びつけることを拒絶する。人間の道徳の秩序を創造の秩序を理解するための規範としてはならないというのが、このヨブの弁論とヨブ記全体に見られる。 知恵は老いた者と共にあり 分別は長く生きたものと共にあるのか。 神と共に知恵と力はあり 神と共に思慮分別もある。 神が破壊したものは立て直されることなく 閉じこめられた人は解放されることがない。 神が水を止めれば干ばつとなり 水を放てば地の姿は変わる。 力も策も神と共にあり 迷うこと、惑わせることも神による。 神は参議をはだしで行かせ 裁判官を狂いまわらせ 王の権威を解き 腰の帯をもって彼をつながれる。 祭司をはだしで行かせ 地位ある者をその地位から引き降ろされる。 信任厚い者の口を閉ざし 長老の判断を失わせ 自由な者に嘲りを浴びせかけ 強い者の帯を断ち切られる。 神は暗黒の深い底をあらわにし 死の闇を光に引き出される。 国々を興し また滅ぼし 国々を広げ また限られる。 この地の民の頭たちを混乱に陥れ 道もなく茫漠とした境をさまよわせられる。 光もなく、彼らは闇に手探りし 酔いしれたかのように、さまよう。(12章12-25節) この個所は一方で友人たちに対する反駁であるとともに、他方では神がご自分の権能を行使する際の気まぐれさ、不安定、不規則さを攻撃する言葉にもなっている。神は創造者であり、宇宙の支配者であるが、その力を誤用する方でもある。ヨブは、神が権威をもってこの気まぐれを行使することを猛烈に抵抗する。こういう気紛れな神によって、ヨブは信仰と憎悪の間で行ったり来たりさせられているのであり、彼は自分の経験を、これまで真理と考えられてきた伝統的な信仰に結びつけることが非常に難しいと思わざるを得ず、これに続くツォファル(と友人たち)に対する非難の中で、自分の経験を弁論の出発点にし始める。 どうか黙ってくれ 黙ることがあなたたちの智恵を示す。 わたしの議論を聞き この唇の訴えに耳を傾けてくれ。 神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り 欺いて語るのか。 神に代わったつもりで論争をするのか。 そんなことで神にへつらおうというのか。 (13章5-8節) 友人たちは自分の信仰を基礎にして論争すべきではなく、むしり(ヨブの経験した)現実をまともに直視し、ヨブに聞くべきなのである。彼らは神との経験から語っているのではなく、いわば教理から語っており、ヨブは自分の経験をこの教理と調和させることが出来ない。しかし、ヨブはこの教理を投げ出してしまうのではなく、未だなお持ち続ける。神は不正であり、残酷でさえあるというヨブの非難は、神が人間に対して適切に正当に反応することを望んでいるからであり、自分が経験したような人間の苦難は偶然に起こったものではなく、神から来るものであると考えているからである。この点は、繰り返すことになるが、友人たちと同様、人間の合理的なロジックであり、ヨブも友人も共通している。しかし、友人たちは神は時として人間には理解出来ないとしても、善をもって行為すると考えるのだが、ヨブにとっては神は悪と専横をもって行為する神なのである。 このヨブの主張と経験はわれわれの経験であり、また同意点でもある。このヨブの弁論の最後の部分は(14章)ヨブの落胆が深いことを示す言葉となっている。小林個人として胸を打たれるのは「人は死んでしまえばもう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから、交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます」(14章14節)というくだりである。ヨブはしかし、完全にギブアップ(give up)したわけではないであろう。直接神から答えを貰うまでは、執拗な友人たちとの論争を尚続けることになる。
*エリフの弁論(32-37章)という宿題について エリフの登場は「突然」と言う印象を受けるが、沈黙したままで、そこに居合わせていたという想定である。これにより、エリフの弁論は後代の挿入だと考える学者もいるが、エリフの弁論の位置づけをきちんと説明、理解した上でないと、早計だという誹りを免れない。 ヨブはこれまで少なくとも何度か自分と神との間の争いをを取り持ってくれる人物を望んでいたのであるから(とりわけ19章25-27節はどうか?、しかし、9章19節、9章33‐34節、13章19節、16章19-21節)、エリフの登場はまさにヨブのたっての願いに答えるという形になっている。但し、エリフはヨブを弁護する立場に立つわけではないのであって、彼は神とヨブとの直接的な対話への足慣らしの役割を担っているのか? エリフの弁論はヨブを告発することと、神を擁護することにある。ヨブ告発の理由は、ヨブが自分を正しいとし(33章9節、34章5節、35章2節、6章29節、9章15節、20節、13章18節、27章5-6節)、神と法廷で争うことを望み(33章13節、9章3節、32節)、神を不当であると繰り返し非難し(33章10節19章6-20節)したからである。神を擁護するのは、もちろん、神の業が偉大であるからである(37章14-18節)。 エリフの弁論の性格と、ヨブ記全体の中での位置(構成)と意味づけはなかなか難しい。一つの理解は、ヨブと三人の友人の対話とヨブの独白が終ったところで、突然読者が期待もしていない所にエリフの弁論が現れる。そして、エリフの弁論はヨブに向けられているにも拘わらず、ヨブの応答はなく、神の弁論が始まってしまう。そうすると、エリフの弁論は何であったのか、という読者の不審が起こって来て、エリフの弁論を降格させてしまう。但し、エリフの弁論は神の擁護で、神的でさえあるので、続く神の弁論を想起させるようなある種の尊大さが付きまとう。もう一つの理解は、エリフがヨブを論難し、神の世界統治を擁護し、仮眠のb不当を当地を塗油時ようとする点で、ヨブの三人の友人たちと共通する。更なるもう一つの理解は、エリフ(神は彼だ、神は主、 אֱלִיהוּא )の名はエリヤ(わたしの神は主である、 אֵלִיָּה 、 אֵלִיָּהוּ )やエリシャ(神は彼の救い、 אֱלִישָׁע )の名と共通しており、預言者たちは神の名において語り、とりわけエリヤは主の日のさきがけの役割を期待される。エリフもまた神の名において語り、彼の語った後直ちに神が語るので、神のための先駆者のようでもある。これら三つのを総合して判断すると、それぞれに機能を果たしながら、、エリフの弁論は、三人の友人たちとヨブの対話、続くヨブの独白を引き受けて、次の神の弁論に繋げる蝶番の役割を果たしていると考えられる。
メモ 疑義或いは問題 ○「利益もないのに」( הַחִנָּם )という一語がヨブ記全体の中で持つ意味 ○神に対するヨブの非難は肯定的なものなのか。友人は神を非難しないから ○友人たちの因果応報は神を擁護しているのか、それとも神の独断、専横を歪める因果応報における、経験と 理念( 考え)との拮抗。理念を優先する伝統主義者の性向 ○9章14節の「絶望している友にこそ友は忠実であるべきだ。さもないと全能者への畏敬を失わせることにな る」に 関して、「真の宗教とは、友に忠実(憐れみ)である、という事を言っている」とコメントしたワ イブレイ( R.N.Whybray),の注解書『ヨブ記』( Job) 52頁を再度想起するなら、ビルダドとツォフ ァルのそれぞれの弁論冒 頭の詰りは、後に神が「お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正 しく語らなかった」(42章7節) という言明と何らかの関係があるのか ○他人を非難する経路。後になるほど悪くなる。エリファズ→ビルダド→ツォファル。エリファズは長老格で 品位が あるが、彼の友人の品格を引き受けることになる。 ○伝統主義者は経験よりも教説、教理を優先する傾向。 ○創造と、創造の秩序に関する人間の考えの相違、拮抗。 ○人間による道徳の思想を(伝統的)創造の秩序として定立することに対する、経験の重さ。 ○エリフの位置と意味。 ○28章の智恵の賛美 ○ヨブの嘆き(21-31章) ○神の弁論の意味。 ○神の創造は間違っていたのか。 ○ヨブ記の結末を、「利益もないのに」( הַחִנָּם )との関連でどう理解することが可能か。 ○次回のヨブ記は「もうこれぐらいにしようか、ヨブ記」とするか。「まだまだ謎に満ちたヨブ記」とするか。
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