第13回講義 ヨブ記 ー神がヨブを呼ぶ ヨブがあなたを呼ぶー
第13回講義
ヨブ記 ー神がヨブを呼ぶ ヨブがあなたを呼ぶー
ナザレ研修会 第13回 2015年2月 7日 ナザレ修女会於 小林進
今回のポイントと過去三回のお話しの振り返り ヨブ記冒頭のサタンの問い、「ヨブは利益もないのに(=理由もなく(いわれなく)、無駄に、無料で)神を信じるか」(1章9節、2章3節、9章17節)( הַחִנָּם )、で始まった問題提起は、なるほど、信仰とは、「利益もないのに、理由もなく(いわれなく)、無駄に、無料で」成立するのかという問いそのものであった。この問題提起について、ヨブと三人の友人(そして招かざる客のエリフ)の間で展開された議論は、ヨブも友人もそれを知らないために、この問題に直接的に反応するのではなく、むしろ「原因(行為)と結果」をめぐる三人の友人のステレオタイプな「道徳的因果応報」(トーラー)の主張と、それを認めつつも、それに反駁するヨブの議論の展開であった。この因果応報の議論は、実は「利益もないのに」という問題の「裏返し」、ないしは「対」でもある。その際、友人たちは強弱の差はあれ、自分たちの主張する因果応報をバックアップするため、神の経綸、すなわち創造と支配を支えとしたのである。他方ヨブは、自分のこれまでの生き方を固持し、この因果応報が十分に機能していないことを質し、自分の立場(スタンス)が正しいということを主張してきた。しかし、よく考えてみれば、ヨブが自分の正しさを主張するとき、ヨブもまた、行為と結果から成る因果応報の考え方を脱出することが出来なかったことを示している。ヨブと友人の弁論が終ったところで、神は嵐(突風)の中でヨブを詰責することを始める。しかし、神の詰責は、ヨブだけでなく、実はヨブの友人たちの主張をも射程に入れているのである。この神の弁論は、創造を中心としたもので、既にヨブも友人もこの創造を取り上げてきた。では神の弁論における創造論とヨブ・友人たちの創造論とはどのような関係に立つのであろうか。 神の弁論とヨブの応答が済んだ後、ヨブは以前にも況して富と家族が与えられ、いわばハッピー・エンドを迎える。このヨブ記の結末にハッピー・エンドが語られるという所に、多くの読者は戸惑い、物足りなさ、呆気なさ、不本意、中途半端などの様々な印象と判断を持つことになる。ヨブ記が展開してきた、ヨブと友人たちの議論、そして議論の結末を飾る神の弁論の意義は何であったのか。なかんずく、劇中にヨブが被った途方もない苦難は何であったのか。その苦難の意義というものは、そもそも意義があるのか、それともないのか。友人たちの議論は劇中どんな意義を与えたのか。それとも、彼らの議論は無意味であり、今や放擲される運命しか残されていないのか。こうして多くの疑問が、ヨブ記のハッピー・エンドに集中する。これらの疑問や印象はハッピー・エンドを一読した限りでは尤もであると言える。しかし、ヨブ記作者は、読者の疑問や印象に関しては沈黙したままで、直接的には何も答えない。、
神の弁論(38章-40章5節) ヨブ、三人の友人、そして突然現れた招かざる客(?)エリフのそれぞれの弁論は終った。 今や、主(ヤハウェ)が「嵐の中から」、「ヨブに」、「答え、そして語る」)のである。 神の弁論の口火(口引き・口曳き)38章1、2節
2節 これは何者か。 מִי זֶה 1 知識もないのに、 בְּלִי-דָעַת 4 言葉を重ねて בְמִלִּין 3 (神の)経綸を暗くするとは。 מַחְשִׁיךְ עֵצָה 2
3節 男らしく、腰に帯をせよ。 わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
4節 私が大地を据えたとき בְּיָסְדִי-אָרֶץ 、お前はどこにいたのか。אֵיפֹה הָיִיתָ 知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。
神が叱責するヨブの無知とは、「(神の)経綸」(秩序を整え、治めることcounsel, advice, deliberation, purpose, plan, governance)についての無知であり、神の弁論は、その経綸とは何かを示すことにある。しかし、冒頭における「お前はそのときどこにいたのか」という神の問いかけそのものが、ヨブは「どこにもいなかった」という答えを予期させ、確かにヨブの無知を晒す効果がある。同時に、果たしてヨブと友人がこれまで問題としてきたことに神は正面から向き合っているのだろうか、ヨブに対して冷笑的ではないのか、かつ(自分の弱みを隠すために)脅しをかけているのではないかという印象、疑問さえ起ってくる。これが先ず、「神がヨブを呼ぶ」最初の調子である。しかし、他方で、ヨブ記のクライマックスを構成する神の弁論は、ただそれだけのものなのか。この神の弁論の中に、これまでヨブ記で展開してきたヨブと友人たちとの問題に対応する何かがあるのではないか。この神の弁論の後で、どうしてヨブは神に服従し(42章2節)、悔い改めるのか(42章5-6節)。神の弁論に共に耳を傾けるようにと、「ヨブがあなたを呼ぶ」理由がここにある。 神の弁論は二部から成る。最初は38-39章で、創造を中心とし、地(38章4-5節)、基(38章6-7節)、海(38章8-11節)、陸(38章12-18節)、それから気象・天候・風(38章19-30節)、天体(38章31-38節、オリオン・大熊・小熊)、種々の動物(38章39節-39章30節、獅子・烏・山羊・鹿・ろば・野牛・駝鳥・馬・鷹・鷲)と続く。弁論の第二部は40-41章で、その大きさのため他の動物を圧倒してしまう、非常に印象的な二つの動物、ベヘモット(40章15-24節)とレビヤタン(40章25-26節、ワニ或いは海の怪物、クジラ、大きな蛇)に焦点を当てる。地についての叙述は人的な構造物を比喩として考えられているが、海に関してはイスラエルを含めた古代オリエントの人々は確かな知識を持っておらず、海の持つ恐ろしい力、破壊力を恐れの対象とした。しかしバビロン神話(エヌマ・エリシュ)や、ウガリットのバアル神話では、神はこの海を支配するものとして描かれ、同様の事態は旧約聖書にも見られる。ヨブ26章10節、詩77章16節等。この神の弁論の個所では、神の用意周到な世界創造が語られる。 さて、これまでのヨブと友人との間に交わされたやり取りと、神の弁論を注意深く校合、比較していくと、幾つかの対応個所が見えてくる。
*ベヘモット(家畜、野の獣、カバか象、NEBはワニ、参照レビ11章2節、ヨブ40章15節、詩編73編22節、イザヤ30章6節) *レビヤタン(海の怪獣、大蛇、ワニ、クジラ、参照詩編74章14節(大きな蛇とレビヤタンが並行parallelisimで言及され、神話的)、ヨブ3章8節、40章25節、イザヤ27章1節(蛇とレビヤタンが同一で神話的)、小林の所有する本の動物相には言及されていない))
神の第一の弁論から
神(38章39-41節) -獅子、雌獅子- エリファズ(4章7-11節)
お前は雌獅子のために獲物を備え 考えてみなさい。 その子の食欲を満たしてやることができるか。 罪のない人が滅ぼされ 雌獅子は茂みに待ち伏せ 正しい人が断たれたことがあるかどうか その子は隠れ家にうずくまっている。 わたしの見てきたところでは 誰が烏のために餌を置いてやるのか 災いを耕し、労苦を蒔く者が その雛が神に向かって鳴き 災いと労苦を収穫することになっている。 食べ物を求めて迷い出るとき。 彼らは神の息によって滅び 怒りの息吹によって消え失せる。 獅子がほえ、うなっても その子らの牙は折られてしまう 雄が獲物がなくて滅びれば 雌の子らはちりぢりにされる。
エリファズの最初の弁論が獅子、子、雄獅子、雌獅子を引用したのは、行為(原因)とその結果の関係は確かなものであり、獅子のように恐ろしく強大な動物であっても、そしてどんなに邪悪な人間であっても(「災いを耕し、労苦を蒔く者が、災いと労苦を収穫することになっている」)、神の力をもってすれば、問題に対処できるということを言うことによって、エリファズが信じた「倫理的な因果応報」(moral retribution)を擁護するためであった。 これに対して、神の弁論では、雌獅子は神の被造物の一つとして、自分のことは自分で自らとその子とを養うことが出来るのであり、神の創造の業の一端である雌獅子を舞台に載せることにより、神の創造の業が自己充足したものであり、それが神の創造全体に浸透していることを描く。神の創造の業に、人間の倫理的な因果応報の思想が入り込む余地がなく、創造それ自体がそれとして厳然としているのだということを示唆する。 こうして、神の弁論は、エリファズが倫理的因果応報の主張のために頼みとした神の創造から、エリファズの主張を締め出す。言い換えれば、神の創造の業に、人間の倫理的な原因結果の考えを持ち込む余地はないのだということになる。この旧約聖書ヨブ記の主張は、一方で、旧約聖書学を生涯の課題としてきた者にとってはそれとして理解できる。しかし他方で、新約聖書とキリスト教会の信仰(信教:われは・・・天地の創造主を信ず)にも慣れ親しんできた者にとって、神の創造を倫理的な因果応報の考えと全く切り離すことは難しく、ここにディレンマ(dilemma)を感ぜざるを得ない。しかし、このディレンマは元来ユダヤ=キリスト教の歴史に固有の性格であって、どちらか一方に(旧約=ユダヤ教、新約=キリスト教)傾いて合理化しようとすると、注意が一方にだけかたより、判断が不公平に陥ると思われる。ディレンマをディレンマとして持ち続けることがわれわれに課せられた課題なのではないか。内村鑑三による、旧約=義、新約=愛、の二つのそれぞれの楕円形の部分的接合という考え方も参考に。 ところで、創造と倫理的な応報思想を手短に語る例として、たとえば詩編34編11節の「若獅子は獲物がなくて飢えても、主に求める人には良いものの欠けることがない」などを参照。この詩編作者は、エリファズの思想と軌を一にすると考えられる。
神(38章4-5節、16節) -深み、海、- ツォファル(11章7-11節)
わたしが大地を据えたとき あなたは神の最も深い所を究めることができるか。 お前はどこにいたのか。 全能者の極みまでも見ることができるか。 知っていたというなら 高い天に対して何ができる。 理解していることを言ってみよ。 深い陰府について何が分かる。 誰がその広がりを定めたのかを 神は地の果てよりも遠く 知っているのか。 海原よりも広いのに。 誰がその上に計り縄を張ったのか。 神が傍らに来て捕え、集めるなら お前は海のわきでる所まで行き着き 誰が取り返しえようか。 深淵の底を行き巡ったことがあるか。 神は偽る者知っておられる。 悪を見て、放置されることはない。
ツォファルは神の「深み」や「海」ということを取り上げることにより、神の計り知れない性質や無限の力について語る。「高い天」(「天」)が神の御坐であり、「陰府」にも神の支配が及ぶという表現は詩編でよく知られたものである。また「地の果てよりも遠く、海原よりも広い」という表現は神を形容するための、いわばステレオタイプ(stereotype、cliche)な表現と見ることが出来る。10節の「神が傍らに来て捕え、集めるなら、誰が取り返しえようか」は、直前9節の「地の果て、海原」と関連した物言いなのかどうかはっきりしないが、続く11節とはよく結びつく。 ツォファルの言っていることは真実であると考えてもよい。だが、ツォファルに於いては、全能の神への言及から裁きの神への言及の移行が極めて早く、彼にとっては倫理的な因果応報の考えと神が全能であるということは、切っても切り離せないほどに一体化している。ツォファルにとって、創造の神を信じることは、裁きの神を信じることである(=キリスト教的ではないか?)。 これに対して、神の弁論では、ツォファルが表現したような、真実ではあるが常套語、常套句のような表現は見られず、むしろ「平易」で分かり易く、「素朴」でさえある。神は、ツォファルのように、ご自分を「海」や「高み」、「深み」と比較するようなことはせず、ご自分が創造したのであるから、もっぱらそれらに対する「洞察」を述べる。ツォファルと神はなるほど「深み」「海」などの同じイメージを用いるが、ツォファルはこれを神の創造と支配を表現しようとするが、神は被造物に対して一定の距離を保ち、創造と、その際の人間の無知を述べるにとどめ、ツォファルのように神の支配と倫理的な因果応報との結び付きには一切触れない。これは、神による世界創造そのものが、ツォファルによる創造への言及に対してはるかに超絶していることを示す。
神(38章31-33節) -星座、すばる、オリオン- ヨブ(9章5-10節)
すばるの鎖を引き締め 神は山をも移される。 オリオンの綱を緩めることがお前に 怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。 出来るか 神は大地をその立つ所で揺り動かし 時がくれば銀河を繰り出し 地の柱は揺らぐ。 大熊と小熊と共に導き出すことが出来るか。 神が禁じられれば太陽は昇らず 天の法則を知り 星もまた、封じ込められる。 その支配を地上に及ぼす者はお前か。 神は自ら点を広げ、海の高波を踏み砕かれる。 神は北斗やオリオンを すばるや、南の星座を造られた。 神は計り難く大きな業を 数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。 神がそばを通られてもわたしは気付かず 過ぎ行かれてもそれと悟らない。 神が奪うのに誰が取り返せよう。
ビルダドに対してヨブは懐疑と苛立ちの中で神の創造的な支配力を語るが、それは同時に神の猛威と激怒とを語ることでもある。ヨブにとって、神は「不思議」であり、「恐ろしさ」であり、かつ「底知れなさ」であって、この「見ることも理解すること」も出来ない「手に負えない神」がヨブの訴え(不服申し立て)の根幹をなす。 これに対して、神はヨブと同じように、大熊[座]( עַיִשׁ Ursa Major、ヨブの弁論ではその一部の北斗七星、すなわち北斗と訳出)、オリオン[座]( כְּסִיל )、すばる( כִּימָה Pleiades、牡牛座の一角にあるプレアデス星団)などのイメージを用い、天気さえ良ければ、人が毎日の生活で見られる創造の業を示す。ヨブにとっては、神の創造は計り難い神の知恵であると同時に神の専制的な支配を相反的に併せ持ったものであるが、神の弁論では創造は神の智恵と秩序として示される。 神とヨブが同じイメージを用いながら、ヨブはいわば桟敷の後ろの方で、限定された視点から舞台を眺めているのに対し、神は舞台の最前列に立って、制作者、監督として舞台の一部始終を見ているのである。この神とヨブの間のそれぞれのスタンスの違いは、ヨブがこの事態をそれと理解できないが故に、結局は問題が解決しないであろうという結論にまで行き着く。またヨブと友人との間に交わされた議論も、この限界の中で果たして相互に努力しただけで埋め合わせが出来るのか、いやできないだろうということになる。わけても、友人たちが自分たちには理解できるといって引き受けたヨブの途方もない苦難が、実は神から来たものであるということを説明することは出来ないであろう。 この他、神の第一の弁論がヨブの語りと対応する個所として、ヨブの最初の独白である3章と神の弁論38章とを挙げることが出来る。両者互いに重なり合うイメージを用いながら、ヨブの独白が内向き、死、暗黒であるのに対し、神の応答は生命、活気、躍動に満ちた論を展開。
ヨブ 神
叫び、痛み(悼み)、悲しみ、存在拒否 創造における活気、生の躍動、自然の活力 死願望、世界拒否、暗黒願望、闇願望 野生動物の多様さ 扉の閉鎖願望(母の胎、死) 扉による生の管理(海の扉を開け、閂で閉じる) 空、海、雪、風、空翔ける猛禽類、野生動 野生の動物の土地から人間の住む土地まで 深い暗闇と内的な深み 高みと低みにおける生きとし生けるもの
死に集中 命に集中
神の第二の弁論から
ヨブの最初の独白に関わるもの 神の第二弁論の中心はベヘモット( בְהֵמוֹת 40章15-24節)とレビヤタン( לִוְיָתָן 40章25-41章42節)に関するもので、通常両者は神話的な混沌の怪物(monster)として言及される。ここでは前者はカバ、後者はワニ(?)として描かれる。両者ともに堂々とした動物で、取り分けレヴィヤタンに関してはその体が極めて頑丈、強力に出来ていることを詳細に語るが、研究者によっては、描写が想像によるものではないかと考える者もいる。 ヨブは最初の独白の中で、自分の生まれた日を呪うとともに、生まれてこなければ良かったということを言うためにレビヤタンに言及する。レビヤタンは、ヨブの誕生を拒むための、混沌の象徴として引き合いに出される(3章8節「日に呪いをかける者たちは呪い、レビヤタンを起こす準備は整った」)。だが、これに対して、神もまたレビヤタンを引き合いに出すが、神の言う所は、この混沌の怪物は、創造の営みからから決して切り離されずに、依然として存在し続けるというものであった。すなわち、神の創造は混沌を排除せず、混沌を内に含むという主張である。混沌が創造の業の中に依然として存在し続けるということは、世界には数えられないほど多くの矛盾に満ちており、ありとあらゆる極端が蔓延る、或は共存するということでもある。命と死、秩序と混沌、希望と絶望、創造と破壊、美と醜悪。ヨブは自分の期待したような答えを神から得ることはできなかった。しかし、神は別の視点からヨブに答えたことになる。
ヨブの第二の独白(28章、29-31章)に関わるもの
創造における知恵の唯一の持ち主は神であるということに関して、神もヨブ(28章21節)も一致している(ヨブ:28章23節、神:38-41章)。しかし両者の相違は、その知恵と正義との関係に関わる。この智恵は、ヨブにとっては「主を恐れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別」(28章28節)であり、知恵と倫理とは切り離すことが出来ないものである。 続いてヨブは自分の過去を振り返り、自分の言葉と行為、思いと願望に於いて罪を犯すことなく生きてきたことを語り、その自分の正しさに応じて神も正しいことを行うよう神に要請する。ヨブの語りを纏めると、人に及ぼしたヨブの尊厳(29章7-11節,18-25節)、ヨブが行った福祉、救貧、正義、人倫の業(29章12-17節、25節、30章24-25節、31章13節、16-23節)、蔑みを含んだヨブの福祉の業(30章1節b-8節)、ヨブが現在被っている屈辱(30章1節a、9-19節、26-31節)、尊大になることの忌避(31章24-28節、29-34節)、そして神への嘆願、要請(30章20-23節、31章1-4節、5-6節、7-12節、14-15節、35-40節)等である。こうしてヨブは、当時の社会状況に従って、人間としての倫理的基準(norm)に即して自分の正しさを述べる。 これに対して神は次のように応答している。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。お前は神に劣らぬ腕を持ち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。威厳と誇りで身を飾り、栄と輝きで身を装うがよい。怒って猛威を振るい、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。お前が自分の右の手で勝利を得たことになるのだから」(40章6-14節)。ここで、神がヨブに尋ね、課している問いとは、ヨブが自分の倫理的正しさの基準で、仮にでもその基準に満たない者がいたら、それらをすべて葬り去るのかということであり、そんなことが出来るのか、それは神の創造に対して根本的に間違った態度ではないかとの問いである。神の創造と倫理的因果応報を「対」(「対句」)としてしまうことは、神の創造に相応しくないのである。ヨブが訴えたことは、図らずも、創造の中心に自分を据え、自分の生命や人生を世界を考える際の基準にまで引き上げ、また自分の考えを何処でも何時でも有効な原理にしようとしたことにある(ヨブだからこそ、そこまで突き詰めた、か)。ヨブはそうすることによって、動物たちの自由、被造物全体の自由、そして神の自由を認めることを怠り、他者もまた自分と同じように考えることが必用であるとの結果に陥ってしまった。神は気まぐれだと非難したヨブだが、ヨブ自身も自分の視点を自分以外のもの、取り分け神に押しつけることによって、同じ非難を免れない。この他、、神が「雨」を降らせるのは「人のいなかった大地」「無人であった荒れ野」「乾ききったところ」(38章26-28節)であると言及するとき、それは人間の耕作地のためではなく、人間の思いや希望とは隔たったところで創造の秩序が保たれていることを語る。また、創造の基である大地を据え、大地の隅の親石を置いたことをヨブは知っているのかと神が問い詰めるとき(38章4-6節)、倫理的因果応報や正義という考えをどうして神の創造の秩序に持ち込むのか、持ち込めない筈だということが語られている。
ヨブ記の結末(42章7-16節) ヨブの繁栄の回復 ヨブ記作者による語り
神による友人への叱責(42章7節b-9節) 「お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しくかたらなかった」(7節、8節)
友人たちはヨブの途方もない苦難を前にして、その事実そのものに向き合うことを怠り、自分たちの「因果応報」と「神観」を優先させて、それをヨブの現実に当てはめようとした。なるほど、当初、友人たちは(エリファズ)ヨブの敬虔を認めたが、議論の進展に伴って考えを変え、ヨブは以前のように敬虔ではなく、罪人でさえあると見なし、それが自分たちの因果応報の考えに一致すると主張し続け、このために神についての考えを援用した。 これに対して、ヨブは友人たちと同様因果応報の考えを保持しながらも、自分の経験している事実が友人たちの考え(理論)と一致せず、自分の経験・事実を犠牲にせずに、果たして事実と理論が噛み合うのか、いやむしろ自分の経験は伝統的な神学的説明では和解できないのではないかと奮闘した。その際、神に対する信仰がヨブの重要な動機になるが、友人たちが神を引き合いに出して現実に対する「当座しのぎ」、あるいは「解決手段」としたのに対し、ヨブは神が人間の苦難を認めてしまうのかどうかを理解できず、友人たちの言う所と衝突するだけでなく、(未だ語らない)神とも衝突した。しかし、最後に、神の語る創造の世界に打たれ、目を開かれ、悔い改めたことにより(40章4-5節、42章2節、3節b、5-6節)、神はヨブを「わたしの僕」として称賛する。彼の友人たちも、ヨブと一緒に神の語りを聞いたであろうが、ヨブのように悔い改めることなく、自分たちの考えを改めることがなかった。では、ヨブは何故悔い改めたのか。友人たちと同様、ヨブも天上と地上のギャップを一連の観念によって繋ぎ合せようとしたが、ヨブは自分がこの世の経験に固執する限り、世界を正しく理解することが出来ないことに気付いた。経験に固執するだけでは理解できない世界への覚醒を併せ持ったところにヨブの成長があり、神はヨブを評価したのである。
神によるヨブ祝福( בֵּרַךְ 42章12節)とヨブによる神祝福( מְבֹרָךְ 1章21節) ヨブによる神の祝福はヨブという人間による神の祝福であって、神が神を祝福することではなく、それによって神の業を変えることはなかったし、ヨブは苦難の経過の中で最早神を祝福することを止めてしまう。神がヨブを祝福するのは、神がヨブを祝福するのに相応しいとするからであり、ヨブが神を祝福したこととは無関係であり、神の自由な裁量である。従って、先に天上で密約された「ヨブは利益もないのに信じるか」との問いは、ヨブが知らずに受けた苦難の原因であり、かつヨブが意図せずにもたらされた繁栄の回復という結果でもあって、必然性(必ずそうなること)や合目的性(物事が一定の目的にかなった仕方で存在していること)を持っておらず、神が祝福することも、また祝福にが欠けことも、共に神の自由な裁量である。
ヨブ記結末の評価、解釈 1. ヨブ記作者は結局、自分の書いた作品が何であったかを理解せず、或は理解したとしても、古い因果応報の原則は強力で、結局はそこにに戻ってしまい、自分の作品の価値を貶める結果になってしまった。 2. ヨブ記作者は伝統的な因果応報に対する抵抗を試みたが、ヘブライ語聖書の正典性に適合するために最後の部分を書き入れた。実際、因果応報の思想は他のヘブライ語聖書では原則であり、取り分けトーラーないしはモーセ五書では、人間生活のために、基本的な社会法や信仰の綱領がうたわれている。綱領が遵守されれば、イスラエルも彼らの子孫も神から正当な報酬を得、そうでない場合には子どもの世代ばかりでなく、何世代にもわたって神から罰せられる。ヨブ記の結末がヨブに報いる神でなかったなら、ヨブ記の神のイメージはトーラーと大きく異なってしまったことだろう。 3. 少なからぬ読者は、ヨブ記の中で因果応報の原則が最終的に放棄され、ヨブに対する神からの報酬も罰もなしに、物語が終ることが相応しいと期待するのではないだろうか。しかし、その場合、信ずることは実に「利益もないのに」という行為であって、悪いことも良(善、好、佳)いことも共に我々を襲う現実であり可能性であり、従ってヨブに対する報酬は神の自由な裁量から出たものだということを忘れることにはならなだろうか。もしヨブ記作者がヨブは貧しいままで終わったという結末にしたら、読者は「ああ、因果応報はなくなった」と言って、これまでの因果応報に代わって、「非因果応報」をヨブ記の根本的主張あるいは範例(paradigm)そのものとしてしまわないだろうか。すなわち、一つの原理的主張(因果応報)が、他のもう一つの原理的主張(非因果応報)にとって代わるだけである。ヨブ記作者が長々と議論を展開したのは、友人たちによる因果応報という主張の単純さ(平易?、無邪気さ?)に対して、ヨブを登場させて、世界は曖昧さと不明慮に満ちていることを示すためであった。.ヨブ記作者が読者に言いたかったのは、ヨブ記を読んだ後では、単純に因果応報を主張することは最早出来ず、かと言って世界はもっぱら不義不正が支配しているという考えに偏ろうものなら、その論理がまた別の原理的主張を生み出すだけである。作者は、ヨブ記の「利益もない信仰」の問題提起から、読者が何事につけ信仰によって「強いないこと」、「将来、未来について自信をもって説明や予想ができないと自覚すること」、そして「神から正義を要求し過ぎないこと」を示唆していると考えられる。
最後に、わたしは、サタンの「ヨブは利益もないのに神を信じるか」( הַחִנָּם )、という問いを、ヨブと友人の神に対する宗教的な問題としてだけでなく、人間と人間の、いわば世俗的な問題としても意識の中に留め置きたいと思う。