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​講義・講演の記録

第14回講義 創造論について ー創世記1章(~2章3節)とヨブ記ー

第14回講義        創造論について ー創世記1章(~2章3節)とヨブ記ー   

       ナザレ研修会 第14回 2015年4月11日 ナザレ修女会於 小林進

 分け入りし 山の川縁の雪解けて 今年もわさび 花つけるかも     分入 谷川縁乃雪解 今年山葵 花着可茂             万葉集巻第二十一 春雑歌1) 詠み人知らず

 まず、今回のテーマの対象である創世記1章-2章3節の天地創造の記事を、その表現という視点から見ていくと、次のような特長が浮かび上がってくる。

1. 混沌(カオス)から秩序(コスモス)へという起点 1.2節から3節へ

1初めに、神は天と地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 (新共同訳) 1初めに、神が天と地を創造されたとき、2地は形なく、むなしく、闇が淵の面にあり、神の霊が水の面を覆っていた。 (聖書協会訳)

  א בְּרֵאשִׁית, בָּרָא אֱלֹהִים, אֵת הַשָּׁמַיִם, וְאֵת הָאָרֶץ.     ב וְהָאָרֶץ, הָיְתָה תֹהוּ וָבֹהוּ, וְחֹשֶׁךְ, עַל-פְּנֵי תְהוֹם; וְרוּחַ אֱלֹהִים, מְרַחֶפֶת עַל-פְּנֵי הַמָּיִם.  

2. ステレオタイプな表現 → 秩序だった表現 → 簡潔な表現

 a 「神は言われた」1章3節、6節、9節、(11節)14節、20節、24節、(26節)(29節)  וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים  

 b 「~あれ」1章3節、6節、14節、15節(複数形  הָיוּ  )    יְהִי     *「~あれ」という表現では間に合わない叙述をするときは別の動詞を使用

 c 「~があった」「そのようになった」1章3節、7節、9節、11節、15節、24節、30節       וַיְהִי-כֵן 、 וַיְהִי-  

 d 「神はZを見て、良しとされた」1章4節、10節、12節、18節、21節、25節 וַיַּרְא אֱלֹהִים אֶת-הָאוֹר, כִּי-טוֹב  

  *31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」

 e 「XとYを分けた」1章4節(光と闇)、7節(大空の上と下の水)、14節(昼と夜)    Y ּבֵין X וַיַּבְדֵּל אֱלֹהִים, בֵּין  

  *「分ける」という動詞がなくても、創造はすべて分類行為として記述される

 f 「呼ばれた」1章5節(昼、夜)、8節(天)、10節(地、海)、    וַיִּקְרָא אֱלֹהִים  

  *創2章19-20節では、動物の名付け親はアダムである

 g 「夕べがあり、朝があった。第Xの日である」1章5節(第一日)8節(第二日)13節(第三日) 19節(第四日)、23節(第五日)、31節(第六日)      X וַיְהִי-עֶרֶב וַיְהִי-בֹקֶר, יוֹם  

  *但し、「第七日」に関してはこの文言を欠く。2章2節(第七日、2回)、 3節(第七日)

 h 「祝福した」1章22節(動物)、28節(男:ザーカールと女:ヌケーバー)   וַיְבָרֶךְ  

  *神の祝福は動物も人も共に増殖、繁栄であり、取り分け人の場合は次の項に深く関わる。    創造の完成にも、「祝福」が用いられている(2章3節)

 i 「支配する」1章26節、28節、「従わせる」1章28節     וְכִבְשֻׁהָ   וּרְדוּ   וְיִרְדּוּ  

  *創造の頂点に立つ人間

 j 創造の完成、安息、祝福、及び聖別2章1-3節 וַיְקַדֵּשׁ  / וַיְבָרֶךְ  / שָׁבַת   וַיִּשְׁבֹּת  / וַיְכַל   וַיְכֻלּוּ  

3. 創世記1章の特長の纏め

 i.「神は言われた」、「神は呼ばれた」という表現による、神の発話行為と神の言葉の重視。   神の発話行為は誰に向けられているのか。神学的にではなく、文学的に考えると。   読者→ユダヤ人・イスラエル人→コス モポリタン人? ii.「あれ」、「あった」、「そのようになった」という表現による、存在の重視。存在重視の背景に、   存在の危うさ、非存在がひそんでいるのか。 iii. 「神はZを見て、良しとされた」という表現による、存在の肯定。   存在の否定が背後にひそんでいるのか。  iv. 「XとYを分けた」という表現による、秩序の構築の重視。ヒエラルキー(階層)の思考  v. 「夕べがあり、朝があった。第Xの日である」。一日を表現するための極めて当たり前の表現。   これも一週を七日で数えるため、秩序構築の一環と見ることが出来る。   但し、いつ頃から週七日制の暦を採用するようになったか定かでない。第六の日の「第六の日である」 という表現が、「第六の日」の叙述を締め括っているとしたら(1章31節)、創造の完成はあくまで  「第七の日」であり、我々が抱く所の、創造は六日間であったという通念とはやや異なる。 これに関しては、特に、2章1-3節を注意深く読む必要がある.

また、日に関して、創世記1章は数字を付すだけで、「~曜日」という名称を持っていないことに注意しておくことも必要。  vi. 「支配する」、「従わせる」という役割を付与された人間は、創造の業の頂点に立つ。    この人間は、神の言う「我々にかたどり」(1章26節)、「我々に似せて」(1章26節)、    作者の言う「ご自分にかたどって」(1章27節)、「神にかたどって」(1章27節)であって、    神に似た存在が、創世記1章の描く人間であり、創造の頂点であるが故に、「支配する」、   「従わせる」という役割が付与される。 

26節 神は言われた。「我々にかたどり( בְּצַלְמֵנוּ )、我々に似せて( כִּדְמוּתֵנוּ )、人を作ろう。      そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。 27節 神はご自分にかたどって( בְּצַלְמוֹ )人を創造された。神にかたどって( בְּצֶלֶם אֱלֹהִים )創造された。      男と女に創造された。 28節 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。      海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。

 vii.「安息日」(シャバート)という名詞は使われず、神が「休んだ」(シャーバート)という動詞が用いられる。    しかし、この第七日目は神が完成させ、神が安息し、神が祝福し、そして神が聖別したことから、     特別の日であることが自ずと明らかである。第六の日の人間の創造によって、神の創造が終ってしまうのでは    なく、第一日から第六日まではすべて第七日に組み込まれて、創造が完成するのである。

ところで、神の創造の業の中で、人間がその中心、頂点に立ち、人間が創造の栄誉を担っているという考えの典型的な例の一つが、詩編8編4-9節である。

4節 わたしは仰ぎます あなたの天を、あなたの指の業を。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5節 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。    人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。 6節 神に僅かに劣る者として人を造り    なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7節 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。 8節 羊も牛も、野の獣も 9節 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。

 ここでは、神の創造の中心、頂点はあくまで人間であり、創世記1章と共通する。因みに創世記1章は、六日間にわたる創造を述べ、そのクライマックス(頂点)に人間の創造を持って来るのである。  創世記1章も詩編8編も、自然は人間がその支配を委ねられているという限りにおいて言及される。これは、自然界そのものへの独立した言及が旧約聖書に殆ど見られないという事実を間接的に説明している。つまり、人間への関心なしには自然への言及が無いという意味である。  この創世記1章や詩編8編に対して、ヨブ記に於ける創造についての神の弁論の特質は、自然の世界そのものが価値あるもので、人間は創造の中心、核心から離れた周辺領域(peripheral)に立っており、人間はしばしば自然の力に打たれ、襲われ、自然を支配することなど出来ず、ベへモトやレビヤタンの例が示すように、動物界でさえよく手なずけることが出来ないことを語る。これは、創世記1章や詩編8編とは対極的で、正反対の考え方であると言ってよい。

 ヨブ記に於ける神の弁論では、「地」、「海」、「天空」、「空を飛ぶ動物」、「気候」、「風」、そして数々の「動物」が言及されるのだが、驚くべきことに、その中に人間への言及は全く見られない。これは、ヨブ記が人間の創造を勿論前提にしてはいるであろうが、人間の創造についてあえて沈黙することによって、人間は創造に於いて中心でも頂点でもなく、むしろ周辺領域に属するものだという主張が見え隠れする。  すでに、先回指摘したように、神は弁論の冒頭で、自らの創造の行為を回想して、そのただ中に人間(ヨブ)を呼び出し、次のように叱責することによって、人間が神の創造に口を挟むことさえ禁じる(ヨブ記38-41章)。

2節 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、(神の)経綸を暗くするとは。 3節 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。 4節 私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。 知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。

 更に、創造に関する次のような神の弁論は、動物界、自然界がそれ自体として、自ら独自のの営みをもって、存在していることを語る。

38章39節 お前は雌獅子のために獲物を備え その子の食欲を満たしてやることができるか。 40節 雌獅子は茂みに待ち伏せ  その子は隠れがにうずくまっている。 41節 誰が烏のたっめに餌を置いてやるのか その雛が神に向かって鳴き 食べ物を求めて迷い出るとき。 39章1節 お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。 雌鹿の生みの苦しみを見守ることができるか。 2節 月が満ちるのを数え 生むべき時を知ることができるか。 3節 雌鹿はうずくまって産み子を送り出す。 4節 その子らは強くなり、野で育ち、出て行くと、もう帰ってこない。

13節 駝鳥は勢いよく羽ばたくが、こうのとりのような羽毛を持っているだろうか。 14節 駝鳥は卵を地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせ 15節 獣の足がこれを踏みつけ、野の獣が踏みにじることも忘れている。 16節 その雛を自分のものではないかのようにあしらい、自分の生んだものが無に帰しても平然としている。 17節 神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ

26節 鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは、お前が分別を与えたからなのか。 27節 鷲が舞い上がり、高い所に巣を作るのは、お前が命令したからなのか 28節 鷲は岩場に住み、牙のような岩や砦の上で夜を過ごす。 29節 その上から餌を探して、はるかかなたまで目を光らせている。 30節 その雛は血を飲むことを求め、死骸の傍らには必ずいる。

 ここでは、動物の(母)親と子の生存にかかわる「命と死」の営みが語られる。雌獅子、烏、山羊、雌鹿、鷲のそれぞれの例では、子を養う母親とそれに依存する子の姿が描かれる。とりわけ、鷲の例では、雛が獲物の血を飲むことが率直に語られ、同じことは雌獅子とその子の場合にも間接的に暗示されている。この猛獣、猛禽が生存してゆくためには、非情な「命と死」の周期的な繰り返しが動物界に存在することを語る。しかも、彼らの存在とその継続は、こうした非情、冷酷とも思われる「命と死」の反復の中で、それ自体として保っていることが神の創造なのである。なるほど、駝鳥自身の存在とその継続には、卵の消滅という「死」が必然的に伴うことを語る。創世記1章で神が動物を祝福して「産めよ、増えよ」と言った自然観に比べると、ヨブ記の自然観は動物界の厳しい事実に目が注がれていることが窺える。  自然は一つ一つの出来事が自動的に連鎖、継続して行く単なる機械仕掛けの営みでは決してなく、自らの生存を獲得するためには、どんな動物にも選択や洞察が不可欠である。動物たちが子を繋ぐために、すなわち繁殖、増殖して行くために、神は彼らにそれ相当の知恵を付与している。駝鳥に関しては、「神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ」と言って、駝鳥には洞察が欠けており、動物界に付与された知恵や分別が、何か無尽蔵にあるものではなく、限界や限定の中で付与されていることを語る。だからこそ、それぞれの動物は、選択、洞察、知恵を活用することが不可避なのである。この動物界の生態に関して、人間は一定の洞察を持っているとはいえ、十全にそれに対処する術を持っていないのである(動物保護、自然保全)。ヨブ記の主張に寄り添えば、創世記が言う、人間が動物界を「支配する」、「治める」とは何なのかという問いが頭をもたげてくる。  神の弁論は更に、人間が既に一部は家畜化した野ロバと、家畜化した馬(軍馬)について次のように述べる。

39章5節 誰が野生のろばに自由を与え  野ろばを解き放ってやったのか。 6節 その住みかとして荒れ地を与え  ねぐらとして不毛の土地を与えたのはわたしだ。 7節 彼らは町の雑踏を笑い  追い使う者の呼び声に従うことなく 8節 餌を求めて山々を駆け巡り  緑の草はないかと探す。 19節 お前は馬に力を与え  その首をたてがみで装うことができるか。 20節 馬をいなごのように跳ねさせることが出来るか。 そのいななきには恐るべき力があり 21節 谷間で砂をけって喜び勇み  武器に怖じることなく進む。 22節 恐れを笑い、ひるむことなく  剣に背を向けて逃げることもない 23節 その上に箙が音をたて  槍と投げ槍がきらめくとき 24節 身を震わせ、興奮して地をかき  角笛の音に、じっとしてはいられない。 25節 角笛の合図があればいななき  戦いも、隊長の怒号も、鬨の声も  遠くにいながら、かぎつけている。

 ここでは、人間にとって非常に身近なロバと馬でさえ、自分の意志と願望(欲望)を持ち、自分のしたいように行動することを語る。野生のロバは、家畜化されたロバとは異なり、人間に従順であることを唾棄し、たとい生息地が不毛であるという環境にあっても、生存に必要な青草を求めて自由に懸(駆)ける自立性があると語る。家畜化され、軍事用に飼い慣らされた馬でさえ、戦時と戦場に於いては、もっぱら乗り手の支配に服すのではなく、自らの意志と能力をフルに用いて力を発揮しようとするのである。 動物以外の自然については、取り分け38章31-38節を参照。  神が自分の弁論を導入するに際して、「嵐の中から答えて、仰せになった」(38章1節)という表現は、こうして、神の創造が「優しくて」「耳障りのよい」「穏やかな」自然を描くものでは決してなく、むしろそれとは反対に、我々の抱く創造観や自然観を一度ひっくり返す意図を持っていることが窺い知れる。  神の創造には「途方もない力」、或は「激しさ」が内に秘められており、それは我々の目には「不正」、「不当」、「不調和」、「不一致」となって現れてくるのである。ヨブ記に即して言えば、神の創造のこのアンビバレント(Ambivalenz、ambibalence曖昧さ、反対傾向併存)な性向は、ヨブの主張する「正直で」「率直な」「正しさ」を希望する道徳律(道徳法則、「すべし」という当為からの義務、或は幸福のための手段、目的)があまり(決して?)役に立たないことをヨブ記は語っている。ヨブの「どうして、善人がこの世界で不当な苦しみを受けねばならないのか」という疑問には、まっすぐに答えるということになってはいない。神は宇宙的な視野の広さの中で、宇宙それ自体がバランスをもって存在していることを一瞥してみせるのであって、人間が期待する理想的なバランスではないことを告げる。  神の創造世界は、一方で再生(更新、再開、回復)と繁栄があり、他方で死や暴力的な破壊(消滅、戦争)があり、どちらも創造世界に固有の出来事であり、この両者が交互に入れ替わりながら、創造は継続して行くのである。  創世記1章には、ヨブ記に於ける神に反逆するヨブという人間の主張は全く見られない(但し、2章のアダムとエヴァ)。むしろ神の創造を讃え、この創造の中で従順に生きることを義務付けられた人間観が創世記1章の特長とも言える。しかし、創造世界の中にあって、自然の頂点に立ち、自然を「治め」「支配する」する人間という点において、ヨブ記の神の弁論は、暗黙裡に、鋭く対立する。ヨブ記に於いては、人間は決して中心ではなく、動物の支配や統治さえ覚束なく、どこまでも周辺部として扱われる。ヨブ記それ自体が、人間の正義の要求に対立したと見るならば、創世記との関係では、人間の世界頂点の要求に鋭く対立していると見ることが出来る。両者は互いに対立的な視点から人間を中心に据えているということが出来る。。

 更に、ヨブ記の創造に於いては、創世記が重点を置いた「安息日」についての仄めかしも、また、創造は一週間にわたって行われたという仄めかしも全く見られない。創世記1章の成立時期とヨブ記のそれとの関係は如何に。祭司の伝統と知恵の伝統の対立?

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