第15回講義 二つのユダヤ思想 ―コヘレトとヨブ―
- 2015年6月6日
- 読了時間: 18分
第15回講義
二つのユダヤ思想 ―コヘレトとヨブ― ナザレ研修会 第15回 2015年6月6日 ナザレ修女会於 小林進
文学の形式として見た コヘレトとヨブ
以前からコヘレトとヨブ記を比較したらどういう問題が現れて来るのかという関心があった。 1979年、ヨークシャー州ハル大学一年目の10月、学内の掲示板には特大のポスターにワイブレイ教授就任講演としてThe Two Jewish Theologies, Job and Koheleth「二つのユダヤ教神学―ヨブとコヘレト」という表題が掲げられていた。講演は既に終わっており、聞くチャンスを逃したわけだ。その後ワイブレイ先生の著作としてヨブ記注解書とコヘレトに関する幾つかの論文は現れたが、両者を比較検討するという研究は筆者の知る限り書かれていない。 両者を文学的な形態から比較してみると、ヨブ記にはヨブをはじめとする様々な「登場人物」(ヨブ、神、サタン、ヨブの子ら、ヨブの妻、三人の友人(エリパズ、ビルダド、ツォファル)、若者エリフ、新たに授かったヨブの子ら)が、対話という形で登場して、様々なテーマをめぐって「物語」(story、narrative)を展開する。かたや、コヘレトは物語ではなく、物語を展開するための「登場人物」を持たず、コヘレトと呼ばれる人物の言葉を選集した「詞華集」(anthology)という体裁を採る。 大雑把な区分けをすれば、ヨブ記は詩文形式の「物語」であり、コヘレトは同じく詩文形式の「エッセイ」(essay)であるということが出来る。物語には「物語性」と、それを可能にする緻密な「組立て」(thread、plot)が不可欠であるが、エッセイは、しばしば作者の主張や気質が繰り返されることにより、ある種の一貫性を保持することが少なくないが、必ずしも「物語性」を必要としない。とはいえ、エッセイには、それを一巻の書物として構成する際に、ある種の意図が加えらえている可能性があり、一般読者には容易に識別できないが、少数の専門家はそれを看取するということがある。 知恵文学 ヨブ記とコヘレトは、ユダヤ教によって旧約聖書37巻が編集される際には、「律法」(トラー)、「預言者」(ネビイーム)、「諸書」(ケスビーム)の三区分のうち、最後の「諸書」に分類され、更には、両者ともに学問的には「知恵文学」(wisdom literature)と呼ばれる文学ジャンルに属すると見なされる。同じ文学ジャンルに属するということは、一般的に言えば、この二巻を生み出してきた知的環境に何か共通しているものがあるということでもあり、その核となるのは「知恵」(ホクマー)という問題である。「知恵」をめぐる典型的な言及は、同じ知恵文学に属する箴言の中に明瞭に見られる。そして、この知的環境をめぐっては、それが本来イスラエルの部族社会に根差したものであるとか、或は学校制度があったのだというような議論がなされてきた。箴言の中でしばしば「わが子よ」と呼びかけて知恵に精通するように指導する「父」の存在が語られるが(1章8節、4章1節、6章20節)、肉親としての父であるとともに(4章3-4節)、教師としての父を指していることも窺がえる。 ヨブ記とコヘレトは一読しただけでも、それぞれの知的環境が異なることは、先の文学的な形態から明らかであるが、更にそれぞれの一巻を開く導入からして際立つ。ヨブは「利益のない信仰」は可能であるかという問いで始め、コヘレトは人生の「空しさ」を前面に押し出す。 先ずはコヘレト12章1-8節 「汝の若き日に汝の創造主を覚えよ」「死を覚えよ」(メメント・モリ memento mori) この個所はコヘレトの中で一番よく知られた個所であり、同時にコヘレトの中で最も難しい個所でもある。ここを糸口として取りあげる理由は徐々に明らかになって行くであろう。個人的な感想であるが、12章1節前半はコヘレトの「華」であると表現したい。この節を含む12章1-7節はコヘレトの最終章を形成し、隣接するのは直前の11章7-10節のまとまりである。後者については、すでに2013年12月7日、第7回「コヘレト(伝道の書)について」の中で、「人生の享受者」と題して取り上げた七つの個所(2章24節a-26節、3章12節、3章22節a、5章7節、8章15節a、9章7節a.8節.9節、11章9節a.10節[12章1節a])の最後の個所でもある。この七つの個所は、コヘレトの人生観をうたった「人生を楽しむこと」に読者の注意を促すもので、「カーピ・ディエム carpe diem」、すなわち「この日をつかめ」、あるいは「今日を楽しめ」というラテン語表現でよく知られている。従って、12章1-8節と11章7-10節の関係は、「人生を楽しめ」の最後の要請があって、次に「死を覚えよ」が続いていることになる(carpe diem+memento mori)。 *コヘレトを構造的に見ると(2014年2月1日のレジメから) 1.2章24-26節(→1章12節-2章26節) この個所は、1章12節-2章26節の結論部分を構成する。ソロモンは人生を満足させようと、最初は快楽を、次いで知恵を探求するが、その努力を回顧して幻滅を覚え、「生きることをいとい」(2章17節)、労苦の結果をいとう(2章18節)。自分を楽しませようと(2章1節a)した計り知れない努力(2章4-9節)も自分を満足させることが出来なかった(2章1節b-2章10-11節)。更には賢者と愚者に区別なしに起こる出来事や(2章14-16節)、どんなに努力しても人間は絶えず忘却の中に取り残されてしまう(2章16節)現実に直面せざるを得なかった。こうしてコヘレトは自分の努力から得たものが悩みと労苦であったことを思い、「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦しても何になろう。一生、人の努めは痛みと悩み、夜も心は休まらない」と述べた後で、2章24-26節において飲み食いして人生を享受すべしと述べるのである。但し、それがおそらく神の手から来るものでなければ、人は人生を享受できないというのがコヘレトの言わんとするところであろう。 2.3章12節(→3章1-15節) 3章1-8節は「時がある」でよく知られた個所である。筆者が恩師R.N.ワイブレイの訃報に接し、ケンブリッジ郊外のイーリーという町の教会で行われた葬儀に参列した折、式文の表に書かれていたのが1節、2節であった「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時がある」。この一連の物言いは、人間に起こる出来事(生と死)、或いは人間に訪れる機会(植える、抜く、保つ、捨てる)を対称synmetry(対照contrast)の組み合わせによって詩的に表現しているが、その出来事や機会を決定するのは神である(11節a「神はすべてを時宜に適うように造った」)。しかし、「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(11節b)のであるから、神が今、そこで、賜物として与えてくれる幸いは享受すべきであるというのが、コヘレトの言わんとするところであろう。 3.3章22節a(→3章16-22節) 3章16節は、この世界には紛れもなく不正が存在するという事を語る。次いでコヘレトはこの問題について、伝統的な考えである「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」(17節a)という点を挙げる。しかし問題は、それが何時であるかを人間が知らないという点にある。すなわち、3章1節で既に述べられているように「すべての出来事、すべての行為には、定められた時があり」(17節b)、その時が何時であるのか前もっては人間には知らされていないからである。また、神の裁きは、死を越えてまでは影響を及ぼさず、一人一人の功罪にかかわらず、「すべてはひとつの所に行く」(20節a)のである。この憂鬱でみじめな状況の中から、コヘレトは22節aで、「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った」と肯定的な言明をし(「悟った」と訳出される原語は「見た」)、その理由として(!)、それが人間の「分」(ヘルカ― החֶלְק)であり、「死後(または、その後)どうなるか誰も知らせてくれないからだ」(22節)と述べる。 4.5章17節→(5章9-19節) 5章9-19節は、富、財産、あるいは裕福について語る。富はここでも人を(或いは、コヘレトを)満足させることが出来ず(9節)、いつまでも続かず、それは手に入れるより早く失う(12-13節)。また、人は死ぬ時にそれを持って行くことが出来ない(14-15a節、ヨブ記との類似)。ソロモンがそうであったように、人が手にする物は結局悩みそのものなのである。コヘレトにとって、人生は否定的である、「風を追って労苦して、何になろうか。その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、煩い(患い)、怒りは尽きない」(15a-16節)。しかし同時に、それなればこそ、「飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ」(17節)と述べる。しかも、それは神から与えられものなのである(17節)。コヘレトの時代にはすでに諺として知られていたと思われる4章6節の「片手を満たして、憩いを得るのは、両手を満たしてなお苦労するよりも良い」は、この単元の手短な総括のような響きを持つが、それに対してコヘレトは彼の常套句である「それは風を追うようなことだ」という言葉を添えている。 5. 8章15節a→(8章10-15節) 8章10-15節は3章16-22節と近似したテーマ(不正の存在)を取り上げている。10節の原文はやや脈絡的な破格があって、正確に翻訳するのが難しい。直訳すれば、「そこで、わたしは悪人が墓に葬られ、聖なる場所に行ったり来たりするのを見た。/ 彼がなした正しいことでさえ、町で忘れ去られる」であるが、果たして前半の主語(「彼ら」)と後半の主語(「彼ら」)が同じ悪人を指しているのか、あるいは悪人と反対の極に立つ「正しい者」を指しているかどうかという点にある。もし、後半が「正しい者」を指しているなら、正しい者は「忘れ去られる」ということで、悪人の不当な評価と明瞭なコントラストを構成する。いずれにしても、その言わんとするところは、続く11節や14節と同様、コヘレトの思想に一致しており、悪人はしばしば生前も死後さえも不当に高く評価されるという点にある。11節はこの問題の核心を告げる「悪事に対する判決が速やかに実施されないので、人の心は悪事を働くに敏である」。だから、「罪を犯し、百度も悪事を働いている者が、なお、長生きしている」(12節a)という事になる。 続く12節bと13節の「神を恐れる人は、恐れるからこそ幸福になり、悪人は神を恐れないから、長生きできない」は、一読しただけでは、これまでのコヘレトの主張と矛盾をきたし、続く14節との間に齟齬を生む印象を受けるが、もし3章17節の、従ってかの有名な3章1節以下の「時」についてのコヘレトの思想を思い起こすなら、人は「時」というものについて無知であり、人は神がいつ裁きを行うのか知らないという主張との間にある種の調和を見るだろう。17節は言う、「正義を行う人も、悪人も、神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」。人は、悪に手を染めようとする誘惑に負けてはならず、自分の運命を神の手に委ねることが間違いを食い止めることとなる。15節の結論は、神から与えられた食い飲みする機会と、自分の業を楽しむことこそ、人間に最も相応しいことなのである。 6. 9章7.8.9節a→(9章1-10節) 9章1-10節は、二つの興味深い問題を扱う。ひとつは、人間は果たして、自分の行為によって、神を喜ばすことが出来るのかどうかという問題である、「それが愛なのか、憎しみなのか、人はしらない」(9章1節)。他は、死は、生きとし生けるものに必ず訪れる、という問題である(2節、3節a)。この9章からコヘレト一巻の終曲(フィナーレ)である12章1-7節への準備が始まっていると見るべきか。 この二つの問題に対し、人間が取るリアクションとして、コヘレトは次のように述べる、「生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂い」(3節b)。すなわち、自分を抑制するものがない時に人は悪に染まり、自分のすることだけは途切れることなく永遠に続くと思い込んで常軌を逸するのが常である。これにに対して、コヘレトは、より良い道を諭そうとする。命というのは神から与えられた尊い賜物であり(4-6節)、人は神が与えてくださった喜びの機会を楽しむべきであり、そうであれば、神はすでにあなたの(人の)行為を嘉(よみ)して下さっているのだ(7節)、と。8-10節の最後の個所では、死は確実で、決定的であり、(だから、或は、そうであっても)、もし人が自分の人生の骨折りに対して真摯に向かい合うべきであると。「何によらず、手を付けたことは熱心にするがよい」(10節a)。果たしてこれはコヘレトノ主張の矛盾点か。 7. 11章9節、10節a、12章1節a→(11章7節-12章7節) 11章7節-12章7節では、若者に対し(或いは、若さを想起し)生を楽しむべきだとする助言が最初になされ(11章7-10節)、次いで死にいたる老齢への言及をもってこの部分の最後を飾る(12章1-7節)。とりわけ、後半部分は「アド アシェル」( עַד אֲשֶׁר 「前に」「~まで」の意)という副詞句が三度用いられ(1節、2節、6節)、「汝の若き日に、汝の創造主を覚えよ」(1節a)という命令句を説明、補足する文章を導入する。コヘレトは「老齢と死」について語ることでこの書を終わらんとするにあたって、読者がその現実にひるむことなく、しっかりと直面するよう諭す(1b-6節)。 よく知られた12章1節aの「汝の創造主を覚えよ」という命令が積極的な性質を持っていることは明らかである。神を「創造主」と表現するのは、旧約聖書で唯一ここコヘレトの当該箇所のみである。しかも、「覚える」(「覚えよ」)という行為は厳密には、もっぱら青春時代にのみなされることであって(!)、そのことは続いて「苦しみの日々が来ないうちに、『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」という後続文章の言明からよく推測されるべきである。そうであるならば、自分の創造主を覚えるということは、その創造主が彼の人生において用意してくれる良いものを彼が享受することこそ、自分の創造主を覚えることに他ならない。重ねて言えば、生を享受することこそ、創造主を覚えることであると言える。人の、従って若者の、短い生は、「霊がそれを与えてくださった神に変える時まで」(12章7節b)、神の賜物であって、他でもない、今ここで享受すべきであり(carpe diem)、死を覚えること(memento mori)と切り離すことが出来ないというのがコヘレトの言わんとする所である。 コヘレトの華と死 12章1節 青春の日々にこそ、あなたの創造主に心をとめよ。 苦しみの日々が来ないうちに。 「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。 2節 太陽が闇に変わらないうちに。 月や星の光がうせないうちに。 雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。 3節 その日には 家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。 粉ひく女の数は減って、粉ひきは止む 窓から眺める女の目はかすむ。 4節 通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はかす(幽)かとなる。 鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。 5節 人は高い所を恐れ(見上げ?)道にはおののき(落胆)がある。 アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実を付ける。 人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。 6節 白銀の糸は断たれ、黄金の鉢が砕ける前に。 泉のほとりに壺は割れ、井戸車が砕けて落ちる前に。 7節 塵は元の大地に帰り、霊が与え主である神に帰る。 8節 空の空、一切は空である、とコヘレトは言う。 釈義的説明 12章1-2節。1章2節の「コヘレトは言う。空の空、空の空、一切は空である」で始まったコヘレト一巻を読み進んできた者にとって、12章1節前半の「青春の日々にこそ、あなたの創造主に心をとめよ」という一節はなぜかインパクトをもって迫る。その理由を考えてみるに、直前の11章9節で突如としてこれまでに見られなかった「若者」、「若さ」、「青春の日々に」、「青春」について畳みかけるように言及することによって、コヘレトという一巻における大きな転調が現れるからである。「9節 若者よ(בָּחוּר)、お前の若さ(בְּיַלְדוּתֶיךָ)を喜ぶがよい。あなたの青春の日々(בִּימֵי בְחוּרוֹתֶיךָ)を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。10節 心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さ(הַיַּלְדוּת)も青春(הַשַּׁחֲרוּת)も空しい」。10節末尾で若さも青春も空しいと言っておきながら、なおその継続、延長として「あなたの青春の日々に(בִּימֵי בְחוּרוֹתֶיך)あなたの創造主を覚えよ( וּזְכֹר, אֶת-בּוֹרְאֶיךָ)」と言うことによって、そっと、あるいは明白に、読者・聴衆に最後通牒を投げかけるからである。 人生の空しさを繰り返し強調してきたコヘレトが対象としてきたのは、空しさに共感する読者であり聴者であった。それは取り戻すことの出来ない人生の「結果」に関するコヘレトの感慨であり、読者に対する共感への呼び出しでもあった。しかし「若者」は未だ人生の空しさを知らず、いわば空しさの途に就いたばかりである。コヘレトは人生の時間を過去に遡上して「若者」(「若さ))を抽象することによって、同じ空しい「結果」を予想しながらも、未知、未然、未明の時間と空間を一時的にでも予想することを可能にする。その続きが12章1節前半であり、しかも「あなたの創造主を覚えよ」と表現することによって、既に結果を知っている者にも、そうでない者にも、自分の存在の根拠(raison d’etre)を自覚させようとする最後通牒なのである。 12章1節後半は、前半の最後通牒がまだ間に合うのか、もう間に合わないのか、そのいずれかを孕みながら、今や「若さ」から「老い」へと眼差しを先取りする(「~の前に」עַד אֲשֶׁר 2節も同様)。いや、それは先取りではなく、老いた者ならすべてが、いつしか自分が若者でなくなったことを周知しており、老いてゆくことを知らないのは若者だけである。若者は自分自身の老人と一度も顔を合わせることがないからだ。これが人生の秘儀(秘義)だ。「苦しみの日々が来ないうちに」、「『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」、「太陽が闇に変わらないうちに」、「月や星の光が失せないうちに」、「雨の後にまた雲が戻って来ないうちに」。ここまで読んでくると、コヘレトの言うことを完全に理解できなくとも、コヘレトの言う所の何か力というものを感じ取ることが出来る。さて、次の3節から難しくなる。鳥の声に起き上がるとは朝の事か。たしかに鳥の声を耳にするのは朝が最も多い。だが、子とかっても、歌の節は低くなる
3節。3節以下については様々な解釈がなされてきた。追悼歌、挽歌、哀歌(dirge)、哀悼(mourning)、葬送(funeral)、死(death)など。しかし、取り分け最初の三つの文学ジャンルには、「死者喪失の嘆きと死者の長所称賛」の言葉が必要であり、コヘレト12章3-7節にはそうした要素が見られない。また、肉体的老化に伴って起こってくる様々な病気への言及も見られず、コヘレトの関心は強く「死」そのもに向けられている。3節から始まる一連の語りの最初の言葉「その日」は2節を受け継ぎつつ、その後すぐに「~であるとき」(when、that)という意味を持つヘブライ語の「シェ」(שֶׁ)を伴って、5節(或いは、7節)迄の語りを同時に起こる出来事として描写する。「家を守る男」(複数形)とは下僕であり、「力ある男」とは対照的に身分や地位のある人々であろう。この両者が一方で「震え」、他方で「身を屈める」とはどういう状況であろうか。何が彼らをそうさせるのか。「粉ひく女」(複数形)とは家政婦であり女中でもあり、「窓から眺める女」(複数形)とは裕福な女性である。ここでもまた、二つの対照的な身分や地位の女性が引き合いに出され、一方は「減って行き」、「止み」、他方では「目がかすむ」(文字通りには、「目が暗くなる」→「憂鬱な」「陰気な」)のである。粉ひきは絶えることのない日常の営みであるが、にv地醸成こうした状況とは何か。身分が対照的な男たちと女たちへの言及は、詳細において、未だ不明瞭ではあるが、彼らの状態を示す「身体表現」は決して肯定的ではないことは確かである。おそらく、ここでは「老化」(aging)「悲しみ」(grief)が比喩的に表現されているのであろう。 4節。通りでは門が閉じられ、粉をひく音はかすかとなる。なぜ、通りの門は閉ざされるのであろうか。おそらく朝に開かれ、夕に閉ざされる町の門が、閉ざされるとは、今は夕方なのか。これまで毎日の当たり前のように聞こえる粉ひきの音が、今はかすかとなる。決まりきった日常生活の中で聞こえていた音がかすかとなるとは、やはり夕方の時間のことを指しているのか。夕方とは、これから夜になる時間を意味しているのか。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。鳥の声に目覚めるとは何と爽やかなことか。しかし、聞こえてくる歌の節は低く、朝の爽やかな目覚めの高揚とは対照的である。何の歌なのか。また、なぜ歌の節は低いのか。 5節。人が高い所を恐れるとは、単純に老人が高い所へ行くことを恐れることであり、道におののきがあるとは、老人が外に出て行って危険に会うことを恐れることなのか 節。アーモンドの白い花が咲くのは春。植物は春になると復活するのに、人はそうではない、との意か。人の老いとは対照的な周りの環境の無関心か。或いはアーモンドの白は、老人の白髪と対応して、復活と老化を対照化(対称化)しているのか。いなご(バッタ)の重荷とは、跳躍力を失ったことであり、夏の最盛期を過ぎたことを暗示し、それは老人になったものが身体に覚える痛みや麻痺のことであろうか。アビヨナの花の実は漬物にされ、催淫効果があるとして知られ、それが実を付けるとは、老人の衰えた性欲と対照させるためか。アーモンドとアビヨナはいずれも肯定的に表現されており、それは老化と死への無関心を際立たせる。一方バッタは老化と死そのもののシンボルとして言及されているか。 人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。今や、この表現は、人が死ぬこと(想定)、或は、人が死んだのであり(未来完了)あり、泣き手とは文法的に男性複数形であって、葬式の参列者である。場面は、funeral、すなわち、葬送、ないし葬儀が想定されている。 6節。6節は1節、2節と同様に「~の前に」(עַד אֲשֶׁר)と言う導入で始まっており、「あなたの若い日にあなたの創造主を覚えよ」を前提としている。白銀の糸→銀の紐。黄金の鉢→金の器。いずれも高価な物を指し示す。泉のほとりに壺は割れ、井戸車が砕けて落ちる前には、泉や井戸での水の確保が出来なくなることで、水と同様、命が枯れる、或は命の確保が出来なくなることを指し示す。 7節。7節も「~の前に」の文脈で読むことが出来るが、その訳を採らず、自立した表現として用言風に「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」としたほうが日本語としてすっきりする。文法的には、強制力を持つ未来形として(jussive)「塵は元の大地に帰れ」と読むことも出来る。「塵」はここでは「人」であり、創世記2章7節、3章9節との関連を想起させる。コヘレトは先の3章21節で「人間の霊は上に上り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」と言っているが、前言を翻したのか。 振り返って 「人生を楽しめ」(「カーピ・ディエム carpe diem」、すなわち「この日をつかめ」、あるいは「今日を楽しめ」)に関する七つの纏まった個所と、12章1-7節の「死を覚えよ」(メメント・モリ memento mori)に関する個所が、コヘレト一巻の構成の大部分を占めていることは明らかである。この枠以外の部分は1章1-11節、4章1節-5章8節、6章1節-8章9節,8章16-17節、9章11節-11章8節、12章8節-14節である。これらの個所の中には7章1節以下の「死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終わりがある。命ある者よ心せよ」など、すでにメメント・モリを直接的にうたっている箇所もあり、コヘレトの構成を考えるうえで考慮すべき問題がなお残っている。また、1章2節の「コヘレトは言う。空の空、空の空、一切は空である」は、12章8節で「コヘレトは言う。空の空、一切は空である」を繰り返しており、1章2節と12章8節でコヘレト一巻の構成上の大枠、或は文学的に囲い込み(inclusive)と呼ばれる手法を形成している。こうして、コヘレト一巻を構成的に把握することで、コヘレトをよりよく理会することが出来る。 コヘレトの文学ジャンルは「エッセイ」であると初めに申し上げた。では、何のエッセイかと言えば、わたしはコヘレトの「人生観」に関するエッセイであると理解したい。人生観というと、「これがわたしの人生観で、わたしはこの人生観の中で生きてきました」というようなニュアンスが付きまとうが、そういうものではないだろう。むしろ、「今」に立って、「過去」を見つめ直し、「過去」とは「何であったか」を振り返る「今」が人生観であろう。 小林秀雄の『私の人生観』、1949年(昭和24年)、47歳。宮本武蔵と明恵上人を取り上げる。その隠れたテーマは「遠くを見る目」。その背景は敗戦経験。