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​講義・講演の記録

第2回アガペー講義  謝罪と赦罪の神学

第2回アガペー講義  アガペー研究第二回  謝罪と赦罪の神学                   2016年2月5日 遠藤 徹 問題:イエス・キリストは謝罪と赦罪について(キリスト者に対して)どう教えているか。   言い換えれば、「アガペー」(=聖書の言う「愛」)のものさしに照らすとき、謝罪や、赦罪 は、どうあるべきか。 クリスチャン同士の間で謝罪と赦罪はどうあるべきか。 §1.アガペーのものさし  《第一のものさし》=『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を           尊び愛しなさい。  《第二のものさし》=『隣人を自分のように尊び愛しなさい』=『隣人を、自分を尊び愛すよ  うに、尊び愛しなさい』=『隣人と自分の両方を共に尊び愛しなさい』  この二つのものさしの土台となっているもの:神はご自身が創られたすべてのものを愛しておられる。人間に限っていえば、「神は(ご自身が創られた)すべて人間を等しく愛しておられる。」神によって創られた人間は神に倣わなければならない。­=人間は神の創造の意思に沿うように生きなければならない=根本の土台のものさし  神は人間を尊び愛してくださっている。→人間は神を尊び愛さなければならない。(恩知らずは許されない)  神は隣人をも私をも等しく尊び愛して下さっている。→人間は隣人をも自分をも等しく尊び愛さなければならない。 §2.聖書の中に「隣人に謝罪しなさい」という教えはあるか   そういう教えは私には直ぐには思い当たらないが、みなさんはどうか。   神に謝罪すべきことは最も重要なこととして数限りなく教えられている。  「私たちの罪をお赦しください」(主の祈り) 兄弟(仲間である人間)に向かって「私の罪をお赦しください」と謝ることは教えられているか? 聖書には、他人に罪を犯した人間に向かって、その他人の前で「謝罪しなさい」、「懺悔しなさい」と説く教えはなさそう。 隣人に対して罪を犯すことは神に対しても罪を犯すことだというのが聖書の重要な考え。(=隣人を尊び愛さないことは隣人の創造者である神を尊び愛さないことである。⇔隣人を尊び愛すことは隣人の創造者である神を尊び愛すことである。――第二のアガペーのものさしの土台形) 私たちは、新約聖書の中で、隣人に罪を犯したことを神に向かって「お赦しください」と詫びるように強く教えられているが、当の隣人に向かって詫びるようにはそれほどはっきり教えられていない。 なぜか? 対立する二つの考え ❶聖書は、罪を犯した相手の人間に対して自らの罪を詫びることに重点を置いていない。謝ることより赦すことが重要だ。罪を犯した人が謝ろうが、謝らなかろうが、あなたは赦しなさい。神のアガペー愛は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:22)のであり、相手がどうであるかに全くかかわりなく愛すのが「アガペー愛」だ。人間もそれに倣うべきなのだ。(ニーグレンはこう考えそう。) ❷「赦す」ということは罪を犯した人が詫びるということを当然のこととして前提しているのであって、だから多くの場合わざわざ言葉に出して言うことをしていないだけだ。無条件に愛して下さる神に対してすら罪を犯した人間は謝罪しなければならないとイエスは教えておられる。救いのためには神の前での悔い改めが必要だと宣言しておられる[1]。当然、人間に対して罪を犯した人間も相手に謝罪することが求められるはずだ。 私の考え:ニーグレンは神が人間に出会う段階のことを言っているのであって、神が人間を救う段階のことは言っていない。人間は神の無条件の、無限の、愛を受けたからと言って、必ず善に生きるようになるとは限らない。太陽は光と熱をどんな物にも差別なしに降り注ぎ、それによって物は必ず何程か明るく、暖かくなるであろうが、人間には自由意志があるから、無条件の愛を受けたからと言って必ず明るく、暖かい人間になるとは限らない。今まで悪の中に生きてきた人間は、神の無条件の愛に何らか自分の側で「応答」して、「悔い改め」なければ、善に生きるようにはならない。悔い改めて、善へと変えられることが「救われる」ということである。だからイエスは人間に向かって、太陽のような神の愛を語ると共に、それだけでは終わらず、「悔い改めよ」とも言われるのである。 放蕩息子の譬え話でこれを確認。 聖書の教えは、まとめれば、《神と人間との間》に関しては、神は人間が神に対する罪を謝罪するか否かにかかわりなく、無条件に人間を愛される。しかし人間は神に自分の罪を謝罪しなければ神に自分の罪を赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはできない、というものである。 人間は神の愛に倣って尊び愛すことが求められている(《アガペーの第一のものさし》の変形①)から、これを人間と人間との関係について当てはめることが求められるが、そうすると、人は自分に罪を犯した人が謝罪するか否かにかかわりなく、その人を無条件に愛すことを求められている。そうしないことは神の目から見れば、その人の罪である。その罪を神に謝罪しない限り、神から赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはできない。また相手の人間(自分が罪を犯した人間)からその赦せないという罪を赦罪されて、救済される(=相手との平和な関係の中に生きる)ことはできない。 これに対して、罪を犯した人間が相手に謝罪しないならば、神の目から見てそれは大きな罪であり、その罪を神に謝罪しない限り、神から赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはなく、また相手の人間から赦罪されて、救済される(=相手との平和な関係の中に生きる)こともできない。  これを韓国人(クリスチャン)と日本人(クリスチャン)との関係に当てはめてみるならば、韓国人は自分に罪を犯した日本人が謝罪するか否かにかかわりなく、日本人を無条件に愛すことを求められている。そうしないことは神の目から見れば、韓国人の罪である。韓国人は日本人を愛せないその罪を神に謝罪しない限り、神から赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはできない。また相手の人間(自分に罪を犯した日本人)にその愛せない罪を謝罪しない限り、日本人からその愛せない罪を赦罪されて、救済される(=日本人との平和な関係の中に生きる)ことはできない。  これに対して、罪を犯した日本人が相手の韓国人に謝罪しないならば、神の目から見てそれは大きな罪であり、その罪を神に謝罪しない限り、神から赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはできないし、また韓国人から赦罪されて、救済される(=韓国人との平和な関係の中に生きる)こともできない。  一つの疑問:韓国人が日本人を赦すことと、日本人が詫びることとはどちらが先になされるべきか。というのも、韓国人は、神の愛に倣うべきで、日本人が悔い改めようと悔い改めまいと、それにかかわりなく、太陽のような愛で愛すべきだということになると、日本人が謝罪しようが、しまいが、赦罪すべきだということになるのではないか、それが《アガペーのものさし》に従って歩む道なのではないか §3.韓国人が先に日本人を赦すべきか、それとも日本人が先に謝るべきか しかし、韓国人は日本人が謝罪しなくても愛すべきだというのが聖書の教えであることを見たが、韓国人は日本人が謝罪しなくても赦罪すべきだということを見たわけではない。謝罪する前に「愛す」ということと、謝罪する前に「赦す」ということは同じではない。韓国人が求められているのは「愛す」方であって、「赦す」方ではない。では、韓国人は日本人を赦しはしないけれども「愛す」ということになるが、それは具体的にはどうすることか。韓国人が謝罪しない日本人を「愛す」などということがあり得るか。しかしここでぜひ思い起こすべきことは、「アガペー」は「尊びの愛」だということ。今私たちはクリスチャンとして聖書はどう教えているのかを探っているのであり、聖書で言われる「愛」は「アガペー」である。「アガペー」は「愛」は「愛」でも、相手を「尊んで愛す愛」である。韓国人はまさに「敵を尊び愛す」ことが、敵である日本人をアガペーで愛すことが、尊び愛すことが神から求められるのだと思われる。日本人を赦せないと思う気持ちを持ちながらも尊び愛すことを神は求められるのだと思われる。「尊び愛す」というのは「好きで愛す」とか「親しみを感じて愛す」のとは違う。相手に「快さを感じて愛す」のではない。そうではなく、相手に尊さを期待しながら愛す、相手が尊いことを信じて愛すのだと思われる。相手はダメ人間になってはならない、人間として「滅んで」はならない、人間としての尊厳を失ってはならない、という思いで相手に向かうことなのだと思われる。実は日本人に向かって謝罪を求めるということが、正確に見究められるなら、それはまさに日本人に尊厳を失わないようにという思いで向かってくる行為なのだと思われる。罪を犯しながら、それを謝罪しないというのは人間としての尊厳を失うこと、人間として失格すること、最も甚だしいダメ人間になることである。謝罪を要求するということは、研ぎ澄まされた精神のもとにしっかりと意味を見つめながらなされるときには、相手を尊びながらなされることなのである。それは難しく、多くの場合、謝罪しない人間を見下し、罵倒する、ざわついた気持ちの内に行われるが。そしてそうである限り、それはアガペーから出てはいないが。しかしクリスチャンである韓国人は、謝罪しない日本人に向かって、アガペーの深みから、尊びの愛の内に、「あなたたちは本当はそのままでいてはよくないはずです」と静かに呼びかけつつ謝罪を呼びかけるよう、神から促されているのだと思われる。  このようにして謝罪しない日本人を「愛す」ことを、「尊び愛す」ことを、韓国人は神から求められている。しかしそれは謝罪しない日本人を「赦罪する」よう求められているということでない。「赦罪する」ということは、それに先立って相手が「謝罪する」ということがあって初めてできることである。こうして、「韓国人が先に日本人を赦すべきか、それとも日本人が先に謝るべきか」という問題への答えは明らかで、言うまでもなく日本人が先に謝罪しなければならない。クリスチャンである日本人は、韓国人のクリスチャンと共に、相手を尊び愛すことを神から命じられている。自分が傷つけた相手に謝罪しないことほど相手を尊び愛していないことはない。 §4.真の謝罪はどうあるべきか  当然のこと、いい加減なもの、まやかしのものであることは許されない。「誠心誠意」のもの、「真心から」のもの、でなければならない。どうしたら相手――自分が傷つけてしまった相手――が、本当にこちらが謝っているということを感じてくださるだろうかということに細心の神経を注いで、熟慮の上で、実際の道が選ばれなければならない。相手が真剣な謝罪と受け止めていないのに、こちらが真剣に謝罪したと言い張ることほど奇妙な、空疎なことはない。  では、誠心誠意からの謝罪となるためには、どうすることが求められるか。①まず言えることは、謝罪する側は自ら進んで自分が犯した罪の詳細をできるだけ正確にきちんと把握することに努めること。被害者側はもちろん被害の詳細の究明に全力を挙げるだろうが、加害者側もそうしようとするはず。この究明は被害ないし加害の「事実」の究明だが、事実を百パーセント正確に突き止めることはしばしば極めて困難。証拠が残っていない場合には一層そう。そこから被害者側と加害者側の究明結果はしばしば異なるが、その場合には加害者側は被害者側の調査が一定の合理性を含んでいるなら、たとえ被害が自分の側の調査結果よりも深刻なものであっても、そちらを尊重して採用するということが「誠心誠意」からの謝罪の証しなのだと思われる。  この点に関連して、もう一つの重要な《アガペーのものさし》に触れておくことが必要。それは一言で言って「アガペーは相手よりも自分から先に尊び愛すのでなければならない」というものさし。これをイエスはいわゆる「善きサマリア人の譬え話」の中で教えられた。「先に」とはまずは時間的に「先に」ということだが、それだけでなく、双方が合理的に導き出した意見や利害が衝突しているとき、相手(の側の意見や利益)を優先して尊重する「先に」をも含むだろう。②第二に、相手が蒙った苦難をできるだけ正確に掴むということは、あらん限り相手の身になって、苦難を自分のこととして追体験することでもある。想像力を極限まで働かせて、苦難を自分の身に感じ取ることを神から促されている。しかし想像力には限界がある。少しでも多く現実のものとして体験するために何よりも必要なことは、事件があった現場に行って、証言を聴くことであろう。もはや生存者が存在しなくなっているなら、歴史を保存している場所へ行くことであろう。さらに証言者の記録を読むことである。そういうことをせずに、目を向けようとしないでいるなら、誠実な謝罪の気持ちはないのに他ならない[2]。「そういうことをしたいと願っているが、できない」と「そういうことをするつもりはない」とは雲泥の違いである。前者には誠実な謝罪の気持ちはあっても、後者にはない。ここでも《アガペーのものさし》がクリスチャンの日本人にはこの意味での誠実な謝罪を命じているであろう。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ人への手紙12:15)  こういうことを、被害者が要求するから仕方なく行うのではなく、自分の方から進んで(「あなたが先に」)行うことが誠心誠意の謝罪の「証し」(決定的バロメーター)である。 §5.誰が、誰に、謝罪するのか  当然、危害を加えた人が、被害を蒙った人に、謝罪するのではないか。しかし、問題にしたいのは、過去に一国民が別の国民に危害を加えたような場合のこと。当事者だった人が極めて少なくなっているときに、或いはついにいなくなったときに、謝罪は必要なのか。公的にきちんとした謝罪と赦罪が行われた場合には、その後は、個々人同士がすることは自由だが、公的には要求されないであろう。しかし、公的にそれがなされない場合に、どうか。当然、被害者側はいつまでも謝罪を要求し続けるであろう。加害者側はそれに応えなくてよいのか。「私たちの先祖がやったことで、私たちがやったわけではない。なぜ、我々が謝る必要があるのか」か。  そもそも被害者側はなぜ先祖が蒙った危害に対する謝罪を求めるのか。国民というものは血縁的、即ち肉体的にも、また文化的・精神的にも、歴史を貫いて深く連帯しているからである。過去に一部の国民が負った肉体的・精神的傷は、癒されることがない限り、その後の全国民の中で疼き続けるであろう。そして同じ連帯性は加害者側の国民にも言えるのであるから、先祖が行った加害責任は、どこかで清算されない限り、後代に受け継がれるであろう。  このことは後代の者が先祖の加害行為を謝罪する場合に忘れてはならない一つの重要なことに思い至らせる。それは、例えば、今の日本人が嘗ての旧日本国民の加害行為を韓国民に謝罪する場合、嘗ての日本人を「向こう側」に見て、そして自分は「こちら側」に立って、「私がやったわけではないが、代わりに私が詫びる」というような意識や姿勢で謝罪することは許されないということである。そうではなく、むしろ、「私は私の血肉になっている加害行為をお詫びします」と述べて謝罪しなければならない。このことは誠心誠意からの謝罪のもう一つの条件を明らかにしている。このような連帯感の中で詫びないこと、罪を自分に無関係なこととして謝罪することは、やはり誠心誠意からの謝罪ではない。  このことは、更に次のことを見るとき、一層明らかになる。もし私が旧日本国の時代に生きていて、先祖と同じ状況に置かれたとしたら、私は同じ事をしなかったとは到底言えないだろう。仮に私が或る戦争犯罪者と同じような境遇に生まれ、同じような教育を受け、同じような人間関係の中を歩み、その上で同じ場面に居合わせたなら、同じ犯罪を犯さないということはまずあり得なかったとすら言えるであろう。こう思うとき、私たちは、本当は、先祖の犯罪を自分の犯罪ではないものとして謝罪することはできないのだと思われる。  「誠心誠意からの謝罪」の条件をまとめれば、誠心誠意からの謝罪とは、①自分から進んで、自身の側の加害行為をできるだけ残らず、詳細に、知ろうと努力すると共に、②可能な限り想像力を働かせて相手が蒙った傷の深さをなぞって汲み取り、③自分の国民の加害責任を他ならぬ自らの責任として謝罪するものである。 §6.更なる問題――同国人の反対者に対して  以上とは別に、加害者側の内部に関しては、もう一つ考慮しなければならない点がありそうに思える。謝罪する側が国民全体で一致してそうするなら問題ないが、謝罪することに反対する人が同じ国内にいるときにはどうすべきか。日本国内で意見が対立しているとき、真心からの赦罪を主張する側はそれに反対する側にどうかかわるべきか。(韓国国内でも、真心からの謝罪を要求する側とそうでない側との間で同様の問題があるはずである。)  こういう場合に真っ先に起こりがちなことは、誠心誠意謝罪すべきだと主張する側は、自分たちは正義の側に立っているのに対して、相手側は錯誤に陥っていると考えて、下に見ることである。きちんとした信念のもとに自分たちは正しいと考えているのだから、相手側は錯誤に陥っていると考えることは当然であるが、問題はそう考えて相手を「見下ろす」ことである。具体的な形はいろいろある。まともに相手にしないとか、揶揄するとか、憤怒するとか、嘲笑するとか、心底から軽蔑するとか‥‥‥。共通なことは自分を優越させ、相手を「見下す」ことである。  これに対して《アガペーのものさし》はどう迫って来るか。もしこの国内での対立で《アガペーのものさし》にかなうように相手と向かい合っていないなら、国際間でものさしに合格するように相手国に向かい合う道を見出したことは果たして本物だったのか、問われるであろう。なぜなら、神はすべての人間をアガペーで愛しておられるのであり、人間は神に倣うべきなのだから、「私たちはすべての人をアガペーで愛す(尊び愛す)べきである」(これはアガペーの最も基本的なものさしであろう)のに、そうしていないなら、国外の人を本当にアガペーで愛すことができていたのか、問われるはずだからである。同じ国の中で意見の対立があるとき、人は自分と反対の意見の人に、また自分自身に、どうかかわるべきか。――ぜひともこのことを問題にしなければならない。  真っ先に関係してくるものさしは《第二のものさし》――「「あなたの隣人をあなた自身と同じように尊び愛しなさい」であろう。相手を「見下す」ことは相手を「尊び愛す」の正反対である。もし私が反対意見の人を見下しているなら、私にアガペーはない。では、反対意見の相手を尊び愛すことは具体的にはどうすることか。  何よりも先ず求められることは、相手と「まともにかかわる」こと、つまり真正面から相手に向か合い、相手の意見を聴き取ることに努めることであろう。相手はどのように自分の考えの正当性を主張しているのか。こちらが持っている先入観を排除して聴き入り、聴き取ることが求められるであろう[3]。相手をして十分に語らしめる。もちろん、その上で、自分から見て間違っていると思われることを率直に述べて、答を聴く。要するに十分に「対話」をすることである。私自身の経験から言って、直接の口頭での対話は言葉遣いも意を尽くさないものになりがちであり、感情的にもなり易いので、重大な問題の場合には、書いた言葉を交わすのが望ましいと思われる。慎重に書くときには、相手を尊重しているか自分を省みる余裕も出て来る。乱暴な言葉遣いも訂正される。《アガペーのものさし》が絶えず問いかけて来ることは「あなたは隣人(相手)を尊び愛しているか」であり、その声に従わずには真実に「まともにかかわる」ことは不可能だとすら言えるであろう。同時に聞こえてくる問いかけは「あなたは自分を尊び愛しているか」であり、相手に対して感情的に、頭ごなしに、かかわっている“無様な”自身の姿から、少しなりと“威厳を持つ”自身の姿、否、“神の前に身を糺して立つ”姿へと促されるであろう。  更にもう一つ重要な心得:意見が自分と反対の相手と対話していくときには、まず相手の中で素晴らしい点はどこにあるのかを探り、その点に敬意を抱くことを真っ先に相手に伝えることから出発するということだと思われる。その努力をせずに、いきなり相手の誤りと思われるところに切り込んで行くなら、相手を尊び愛すことは微塵もないのであり、それでは相手に向かって尊びの愛を説く資格はなく、対話を妨げているのも自分の側である。「自分の方が先に相手を尊び愛しなさい」はまたしても確かな、揺るぎない《アガペーのものさし》である。  このものさしに従って対話が開かれるなら、そしてこのものさしに従って対話が行われるなら、それは次第に深まることが予想され、期待されるが、しかし、それでも対話は終局まで至るとは必ずしも言い切れない。しばしば起こることは、突如中断が起こるということ。相手がこちらの言うことを馬鹿げていて、まともにかかわる気にはならないと考えての場合もあるが、逆にこちらに議論では歯が立たないと感じての場合もある。そういう場合には、そのいずれかが分からなくても、ともかくなぜ相手が何の反応もしなくなったのか、自分の側に何か問題がなかったかを、心当たりのありそうなことを探し出して、相手に問いかけることが、相手を尊び愛す道に他ならないであろう。こちらが真実に相手を大切に、尊く、思っていることが伝わるならば、応答がなく、沈黙のまま終わっても、無駄ではないのだと思われる。  このような「対話」の間、常に思い起こされることが求められることは、先程見た、過去の日本人を自分の「向こう側」の、自分と「無縁な」人間だと考えることができなかったように、意見が対立する人間も同様であり、私が相手と同じ境遇に生まれ、同じ教育を受け、同じ人間関係の中にあったなら、同じように言う可能性があるということであろう。このことに思い至ることは、相手が今のままでよいと考えたり、言ったりすることではない。そうではなく、相手と一つになって誤りを脱出しようとすること。このように「一体」となって行われる謝罪こそ、真の誠心誠意からの謝罪であろう。 §7.誠心誠意の謝罪は何をもたらすか  以上、《アガペーのものさし》に照らされながら、真に誠心誠意からのものである謝罪とはどういうものであるはずかを見て来た。では、このような謝罪は何をもたらすか。それは必ずや誠心誠意の赦罪を引き起こすと思われる。真心は真心を引き寄せずにはいず、アガペーはアガペーと結ばれずにはいない。――これは聖書に記されている通りの事実であり、法則であろう。聖書に記されたことを離れても、永久に変わることなく、事実として生起することだと思う。真心から謝罪した者と真心から赦罪した者との出会い。――これほど崇高で高貴な出会いはないと思う。「神の国」(神が統べ治められる人々の輪[4])とはまさしくこのような出会いを言うのだと思われる。《アガペーのものさし》に合格して真実に真心から謝罪した人間は神によって、また相手によって、真実に赦罪され、真に祝福された者となるであろう。 「主の祈り」を祈ることは、このような「神の国」が来ますようにと祈ることであるはずである。  天におられる私たちの父よ、  あなたの御名が聖とされますように。  あなたの御国が来ますように(「神の国」、「神の統べ治め」、が地上に来ますように。)』  あなたの御心が天に行われる通り、地にも行われますように。  私たちの罪をお赦しください。  私たちも人を赦します。  私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。 [1] 「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」(マタ 4: 17)「わたしが来たのは、 正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ 5: 32)「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ 15: 7) [2] 日本が韓国に誠実に謝罪したと韓国人自身がはっきりと認めることができるために、日本人は、また日本国の代表である総理大臣は、どうしたらよいか、具体的行為を、こちら側から進んで、真剣に考えて、実行することが求められている。(それは何か、この会の私たちにも求められているであろう。)それをせずに「謝罪した」と言い張ることは、韓国人には「真心からの」謝罪とは到底認めることができず、一層日本人の厚顔無恥を印象づけるであろう。  但し総理大臣というものは一国を代表する立場の人であるから、国民の意思が一つになっていないときには、一方の側の意思表示をすることはできないという制約がある。従って、総理大臣としてでなく、「一個人として」と断って行うことになる、或いはそれも難しいときには、総理を退いてからそうする、というようになるであろうが。いずれにせよ、真心からの謝罪の気持ちがあるならば、道を探すはずである。さらにまた、国民の意思が一つになっていなくても、一国の首相として国民を「先導する」決意で謝罪する道はあるはずである。そういう首相は世界から尊敬を受けるであろう。  なお、ここに記した意味で「誠心誠意」からの謝罪を行った記録として村岡崇光『私のヴィア・ドロローサ』(2014年、教文館)は特筆に値する。誠意ある日本人の必読の書である。 [3] このように相手の言い分を先に聴くというところにも、アガペーのものさし「あなたが先に尊び愛しなさい」が働いている。  なお、ここに言う「まともにかかわる」ために真っ先に求められることは、そもそも相手と「出会う」ことである。相手と直接会うにせよ、相手と電話や文通で“出会う”にせよ、まず相手とどうしたら話し合うことができるかを調べ、相手に最初の言葉をかけることが求められる。それを調べる作業はしばしば“八方手を尽くす”極めて複雑な、厄介なものとなるが、だからといって、それを投げ出すなら、問題をも、相手をも、自分をも、――何ものも尊び愛していないであろう。 [4] 「神の国」を一挙に宇宙大の神の支配と考えることは問題であろう。二人、三人でも真実にアガペーで尊び愛し合うところに既に「神の統べ治め」は実現していると聖書は教えている。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

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