第19回旧約聖書講義 創世記の世界(2)ユダとタマルの物語-匠の技-
第19回旧約聖書講義 創世記の世界(2)ユダとタマルの物語-匠の技- ナザレ研修会 第19回 2016年4月2日 ナザレ修女会於 小林進 創世記38章 ユダとタマル この物語を再び構造的に見る Anthony J. Lambe / Tzvetan Todorov(ロシア・フォルマリスト) 創世記の中でやや特異な内容と位置を占めるのが創世記38章である。というのも、37章から始まったヨセフ物語をすぐに中断するようにユダとタマルの物語が挿入され、再び39章からヨセフ物語が継続するという構成になっており、38章がいかなる意図で現在の位置に置かれたのか必ずしも明瞭ではないからである。この意図については、昨年末にルツ記とエステル記について学んだ際、ルツ記と創世記38章は、出エジプトという救済史物語を必要とせずに、カナンに定着を続けたユダ部族とダビデの独自の伝承をそっと主張するものであると推論した。言い換えると、イスラエル十二部族におけるユダ族の政治的独自性(ダビデ王朝)と、その出自の特異性(heterogeneous)を同時に前もって知らせておくためにここに挿入されたとも推測される。創世記38章の現在の位置はそうした推論を引き起こさせる謎を持っている。 とはいえ、38章それ自体に目を向けると、先回同様、興味深い構造が見てとれる。 全体の構造

図の一般的な説明 上の図からそれと分かるように、38章を「話の筋」における「運動」という視点から見ると、38章1節の「下る」(ヤーラド、新共同訳では「別れて」と訳出される箇所)という動詞と、12節の「上る」(ヤアル)という動詞がそれぞれ、物語全体を「下降―上昇」の構造に組み立てていることが見て取れる。 先のアブラハム物語の交差対句法に見られた、「折り返し地点 turning point」、「分水嶺 watershed」、「クライマックス climax」あるいは「枢軸axis」に相当するものが、この物語では12節a「かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ」の箇所である。或いは上の図の形から見て、これまでの表現を変え、12節aを物語の「底 bottom」と言ってよいかもしれない。 この直後の12節bと13節において「上る」という動詞が2度用いられ、物語は上昇に転じる。下降の局面は、最初のユダを取り巻く環境が壊れていく状況に向かったものであり、上昇の局面はこの壊れを回復しようとする。12節aはユダの妻の死によって、この壊れを刻印するような役割を果たしている。この妻が「カナン人のシュアという人の娘」(2節、12節a)とだけ申告され、その名を明らかにせず、やがて物語の結末に至って、ユダの、そしてユダ族の子孫は息子の嫁のタマルとユダによって繋がれたと語るところが大変に興味深い。 上の図において学者たちは交差対句法(chiasmus)という表現をとらず、構造的相称(structural symmetry)という表現を好んで用いる。筆者はどちらでも良いと考えるが、これらの用語の相違は、前者は文学的な表現技法のひとつであることを強調したもので(文彩)あり、他方後者は必ずしも文学には限定されず、建築や絵画(或いは科学的な構造式?)にも広く使われる用語であることに由来すると考えられる。 第1場と第5場、第2場と第4場が、それぞれ語彙や内容で、構造的なパラレル(平行)を示す。この点については以下でいくらか詳細に見ていく。 第1場面と第5場面の平行 第1場面 創世記38章1-6節 第5場面 創世記38章27-30節 「兄弟たち」( ahim)(1節) 「兄弟」( ah)(29節、30節) 「名」(sem)(1節、2節、3節、4節、5節、6節) 「名」(sem) (29節、30節) 「産む」(yalad) (3節、4節、5節) 「産む」(yalad)(27節)、「出産」(yalad) -------------------------------------------------------------------------------(28節、2回) 「長男」(b kor) (6節) 「これが先に出た」(zeh yasa risona)(28節) 「取る」(laqah)(2節、6節) 「取る」(laqah)(28節) 第1場面と第5場面の用語の並行は顕著である。それぞれの場面の中で物語の展開の中心をなすのが「産む」という動詞であり、この動詞が名詞に変化した「出産」はそれを補う。これによって、「長子相続(権)」が陰に陽に物語の中心的なテーマを構成していることが見て取れる。また「産む」によって子どもを儲け、子孫(血統)が継続することが同時に重要なテーマを構成している。第1場面では、シュアの娘(彼女の名前は申告されていない!)が産み、第5場面ではタマルが産む。それぞれに産まれた子どもはすべてユダの子孫であり、子孫の誕生は第1場面と第5場面の安定した状況を構築する。これを第3場面に比較して「均衡」と呼んでおこう。 イスラエルにおける長子相続(権)(primogeniture)の問題が重要な関心事であったことは、旧約聖書の様々な証言からそれと窺い知ることが出来る。しかし創世記を一読しただけでも、この問題がいつも問題なく進行して行ったのではない事が窺い知れる。イシマエルとイサク、エソウとヤコブ、ヤコブの子らとヨセフ、のそれぞれの物語はこれが複雑な問題を引き起こしたことを示唆する。慣習(システム)として確立されていたとは断定出来ないが、場合によっては末子相続(権)(ultimogeniture)というような事態も起こりえたであろう。 第1場面と第5場面の平行で注意しておくべきもう一つの問題は、息子の誕生に関するものである。第1場面ではユダは三人の息子、エル、オナン、シェラの父となる。第5場面ではユダはゼラとペレズの双子の父となる。第1場面では三人の息子は秩序に従って順番どおりに生まれ来るが、第5場面では胎内の中でペレズがゼラに取って代わる。 第1場面と第5場面ではそれぞれに長子の特権が問題となっており、この特権に伴う長子の運命(人生)こそが神の民の目的と密接な関係に置かれる。即ち、長子というのは、神との契約を伴う家族を代表し、かつ担い、彼を通して神の祝福が遂行され、完成するのである。 第1場面におけるユダの子らは子孫を儲けることに失敗し、舞台から消えていく。それぞれの名前、エルは「用心深い」、オナンは「強い」と同時に「無為」、シェラは「時間をかけて」の意。他方、第5場面のタマルの子らは子孫を儲け、繋がれていく。取り分け、ペレズはダビデの先祖となる。 更に注意しておくべき問題は、「兄弟たち」「兄弟」という語彙の平行である。兄弟関係は創世記において非常に重要な家族構成要素であり、ここでも又、他と同様に、兄弟の間の調和と不調和の問題が物語の構成の大きな要因となる。 最後に動詞の「取る」。第1場面では、ユダがシュアの娘を嫁に「取り」、生まれた息子エルのためにタマルを嫁に「取る」。第5場面では、助産婦が胎内から手を出した子に真っ赤な糸を「取る」。いずれも「取る」という動詞はユダとタマルをして、ペレズへと結び付けていく。それは長子相続(権)が物語の中心問題であることを示す。 第2場面と第4場面の平行parallels(対称symmetryと対照contrast) 第2場面 創世記38章7-11節 第4場面 創世記38章12b-26節 神と正義:応報的、公然、迅速(7-10節) 神と正義:創造的、隠然、累進的(12節b―30節) タマルとオナンの同居:反復/非懐妊、「入った」 -タマルとユダの同衾:一回/懐妊、「入った」 (bo ) (8節、9節) (bo ) (16節、18節) オナンは「知った」(yada )(9節) ユダは「知る」(なかった)(yada )(16節) オナン、レビラト婚(嫂婚そうこん)を破る(10節) --タマル、レビラト婚を守る(12節a-26節) エルとオナンは「悪」(ra )(7節、10節) タマルは「正しい」(saddiq)(26節) タマルに対するユダの欺き(11節) タマルの対抗的な欺き(14-23節) タマルに対する不正(11節) タマルに対する公正(26節) タマル、自分の父の家に行く(11節) タマル、門の傍らに「座す」(yasab) 寡婦( almanah)として(11節) ----ティムナの途中にあるエナイムで、 「娼婦」(zona)として タマルはユダにそこに「留まるよう」(yasab) 後にタマルは「立ち去る」(halak 言われ、そこに「行き」(halak)、 ---(19節) そこに「留まる」(yasab)(11節) タマルの場所、衣服、役割について、第2場面と第4場面とでは著しい相違が見られるが、それが同じ動詞や行為を繰り返すことによって遂行されるところが興味深い。 第2場面11節では、タマルはアドラムにある自分の父の家に「行く」(halak)が、舅ユダが目論んだように「寡婦」(al manah)として永久にそこに「留まり」(yasab)「住む」(yasab)ことよりも、むしろそこを離れることを選ぶ。 第4場面14-15節では、タマルは「寡婦の着物」を脱ぎ、「娼婦」に成りすましてエナイムの門に「座す」(yasab)。この後、ただちにタマルは「行って」(halak)、寡婦に成りすます。寡婦の着物から娼婦の着物への変身は、家族における一役割から社会の底辺のそれへの変化であるが、皮肉にも後者の役割を果たすことによって、家族が再構築されるのである。タマルは寡婦の独り身の受動性から、娼婦の性的衝動へと変身する。タマルは、寡婦でいる限り子どもを儲けることが出来ないが、娼婦となってそれを獲得する。 第2場面と第4場面におけるタマルの場所、衣服、役割の変換はタマルの運命を変えるが、それはこの二つの場面の間における相称symmetry(対称)と同時に対照contrast(反対)をも示している。オナンとユダのタマルに対する性的関係の態度の相違にも興味深い対照が見られる。 第2場面において、ユダはオナンにタマルのところに行くよう(bo )命令するが、第4場面ではユダはタマルのところに入る(bo )ことを懇願する。ここでの対照は、一方でユダは先にオナンに子孫を繋ぐために嫂に対する義務を果たすよう命令するのだが、オナンは、タマルのところへ入るとき( bo )はいつも精液を地に漏らし、快楽だけを求め、他方で、エルのために子孫を儲けるようオナンに向けられた命令は、オナンの忌避により、タマルをしてユダとの間に子孫を儲けるという結果になる。また、タマルとオナンの性的関係は反復性のもので、結果として子孫を儲けるに至らないが、タマルとユダのそれは一回的でありながら、懐妊という結果に導かれる。 恐れを抱かせる父と悪しき息子らの手に委ねられた長子相続(権)は不毛であり、正しいタマルの手に委ねられた長子相続は成就する。レビラト婚に対して否定的であろうとするとお何は打たれ、肯定的な応答は実りをもたらす。 欺きと対抗的欺き タマルはオナンが彼女のところに入るたびに欺かれる。というのもタマルはオナンがレビラト婚に忠実であることを期待するからである(10節)。他方で、ユダもまたタマルを欺く。というのも、ユダはレビラト婚に従って彼女にシェラを与えないからである(11節)。これに対して、タマルは対抗的な欺きで懐妊を獲得する(23節)。 タマルはユダが自分を欺いたと気付くのはエナイムの門であり、タマルがユダを欺いて妊娠するに至るために謀ったのも同じエナイムの門である。「エナイムの門で」(b petah ’enayim)とは、文字通りの意味は「目をひらく」であり、物語の筋にシンボリックな軸を構成する。この軸とは、ユダの欺き、取り分け性的な婉曲えんきょく(シェラをタマルから遠ざける)にタマルが気付くということであり、同じ婉曲(タマルが娼婦に成りすます)によって今度はタマルがユダを欺く、という意味での軸である。オナンとユダのタマルに対する欺きは長子相続を台無しにし、タマルのユダに対する欺きはそれを成就させる。 義、正義の性質 第2場面では、義の性質は「(因果)応報的」、「報復的」。神はエルとオナンの行為を悪と見て、死の罰を与えるが、これは少なくとも神がレビラト婚を承認していることを示す。第4場面では、ユダがタマルにシェラを与えず、彼女の父の家に行かせた自分の非を認め、タマルが姦淫の罪で焼き殺される段になって、タマルの義を認める。タマルはレビラト婚の意図を遂行し、ユダの為の子孫を繋ぐ。タマルの行った義は、事態を換えるという意味で「変換的」「和解的」、かつ「創造的」でもある。 神の様態 第2場面ではエルとオナンの悪を察知し、彼らの命を奪うことからして、神の働き(様態)として「公開的」「敏速」「直接的」「報復的」であり、「偏在」「全能」「全知」である。かたや、第4場面では、「隠匿的」であり、彼の義は「発展的」「間接的」「想像的」である。 動詞「知る」(yada )による対照contrast オナンは自分によって生まれてくる(かもしれない)子どもが、自分のものではなく、エルのものになることを知っていた(yada )(9節)。こうして.皮肉なことに、オナンの「知識」がエルの子孫のみならず、自分の子孫も絶やされる原因となる。他方、ユダはその娼婦が自分の嫁であることを知らなかった(16節)。しかし、タマルの弁明によってユダは自分の過失(悪)とタマルの義を認め、ユダは再びタマルを知ることがなかったと語られる(26節)。このユダがタマルを知ることがなかったという意味は、タマルと性的な関係を再び持つことなく、タマルの義によってユダの家系が繋がれたということを示している。 オナンー知識―死 ユダー知識―命 それぞれの場面の外観と筋立 第1場面:創世記38章1-6節の構造 導入 1. そのころ、ユダは兄弟たちと別れて、アドラム人のヒラという人のところへ下った。 A 2. ユダはそこで、カナン人のシュアという人の娘を見初めて結婚し、彼女のところに入- った。 B 3. 彼女は身ごもり男の子を産み、エルと名付けた。 X 4. 彼女はまた身ごもり男の子を産み、その子をオナンと名付けた。 B1 5. 彼女は更にまた男の子を産みシェラと名付けた。彼女がシェラを産んだとき、ユダ はケジブにいた。 A1 6. ユダは長男のエルに、タマルという嫁を取った。 まずこの第1場面の物語(エピソード)は1節の導入から始まる。この導入は前章の37節を念頭に置いたものと理解することが出来る。全体が叙事文(説明文)で構成されている。 Aでユダはただちにシュアの娘で名前を知られていない女を嫁に取り(laqah)、家族を作る。これに対応してA1では、ユダは族長の責任としてエルのためにタマルという名の嫁を取る(laqah)。ここで期待されているのは、ユダ亡き後、長男のエルが一族を取りまとめていくことである。 続くBXB1は、ユダと彼の妻が家族を生み出し、次の世代へ、或いは長子相続を目指すことであって、「身ごもった」「産んだ」「その子を~と名付けた」という動詞の繰り返しにこの点が明らかである(BB1)。 オナンの誕生はXの位置を占める。それは次の場面でオナンが決定的な役割を果たすからであり、彼はレビラト婚の責務を果たすのに失敗し、ユダ家における長子相続を脅かす。 第1場面は、物語が家族関係に関わるものであり、その登場人物、すなわち「父」「母」「息子ら」「義父」「義嫁」を紹介することにあり、未だ「均衡状態」に置かれる。A1はこの家族の継続がエルにかかっていることを示す。学者によってはこの第1場面を「同心円的パターンABXBA」concentric pattaernと呼ぶ。 命―生き残りー子孫―多産―継続 第2場面:創世記38章7-11節の構造 A 7. しかしユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。(深層) B 8. ユダはオナンに言った、「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために 子孫を残しなさい」。(表層) X 9. しかしオナンは子孫が自分のものとならないのを知っていた。(深層) B1 兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。(表層) A1 10. 彼のしたことは主の意に反することであったので、主は彼をも殺した。(深層) 第2場面も第1と同様「同心円的パターン」と呼ぶことができる(AB―X―B1A1)。 AとA1は、エルとオナンについての叙事文で、彼らの悪を見抜く神の全智とそれに伴う報復が語られる BとB1は、前者が直接話法を含み、後者は叙事文で構成される。ユダはオナンにレビラト婚の責任を遂行することを命じるが、オナンはこれを拒否する。 Xはオナンの反抗的な行為を語るが、それは彼の内面での認識、即ち子孫が自分のものとならないとういう洞察であり、これによってエルの子孫のみならず、自分の子孫も絶たれる。 AとA1で「主の目に」(主の意に)、BとB1で登場人物のスピーチ(ユダーオナン)と行動(オナンの拒否)の間の対照、そして中心Xにおける登場人物(オナン)の深層心理。これらを深み(深慮)A-A1、表層(スピーチと行為)B-B1、そして深みXという構造で捉えることが出来る。 第2場面の最終局面:創世記38章11節の構造 A 11. ユダは嫁のタマルに言った。「わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは 父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい(yasab)(表層) X それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからである(深層) A1 タマルは自分の父の家に帰って暮らした(yasab)(表層) この第2場面の最終局面は、Xのユダの思いを囲むようにして(A―X―A1)構成されている。ユダの命令(A)はタマルの行使(A1)と対応する。タマルはユダの家を去るときは、シェラが成人した暁にはレビラト婚の行使がなされるものと確信していた。それに対してユダの意図は、レビラト婚をすでに彼の内面では忌避していたのであり、この忌避がユダの子孫の継続を脅かすのである。ユダの子孫の継続性は、タマルの子宮にのみ依存しているからである。 ここでもまた表層と深層の構造が見て取れる。 第1場面が家族の均衡を形成していたのに対し、第2場面はユダと彼の息子らの行動と態度によって、家族の均衡が破られ、非均衡へと押しやられる。エルの悪は明瞭に語られていないが、おそらく、彼が長子として子孫を繋ぐという責務を果たさなかったところにあって、これが神による罰としての死を招く。 オナンは亡くなったエルのために、レビラト婚に従ってタマルと結婚し、タマルによって子を儲けるのがその責務であったが、子種を地面に流すことによってこの責務を行使しない。地面に子種を流すとは、生命流動体を壊すことであり、象徴的には彼自身の死を予兆する。またオナンの行為は「自己決定」self-determinationであって、「生命躍動」に従っておらず、生命を自分勝手に破壊する行為である。 ユダにはこれら息子らの悪を見抜く力が欠如しており、真の理由を見出せないままに、タマルを彼女の父の家に送り返す。これは彼女を締め出すことであり、家族の絆を断つことであり、また更に家族の崩壊を助長することでもあった。 第3場面:創世記38章12節aの構造(axis) 12a. かなりの年月がたって、シェアの娘であったユダの妻が死んだ。 第3場面は創世記38章の下降―上昇パターンの要(枢軸)を構成する。 ここでは最早「表層―深層」パターンは見られない。そのことがかえって、ユダの家族が崩壊したことを示す。「どん底」。 ユダの妻の死によって、家族は危機に立つ。というのも、妻の死は、ある意味で、息子たちの死よりも家族にとって決定的な意味を持つからである。即ち、最早ユダの家には実りをもたらす胎が喪失したことを意味する。家族の未来は、この時点で、決定的な危機に遭遇し、長子を確保するための根本的な必要に迫られる。 この12節aに至るまで、ユダの妻の名が語られないという事実は、名を示されない女の息子たちはユダの家を継ぐ者ではなかったということの暗示である。それはまた、ユダの家はタマルの名によって継がれるということの強調でもある。 第4場面:創世記38章12節b-26節の構造 A 12b. ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を切る 者のところへ上っていった。 A1 13. ある人がタマルに、「あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにティムナへ 上ってきます」と知らせた。 第4場面の冒頭は、パラレル(AA1)パターンで始まる。ユダのティムナへの旅と、それがタマルに知られるということの間にパラレルが構成される。タマルにとって、舅がティムナにやって来ることを知るのは、彼女の計画にとって決定的な重要性を持つ。 またユダが舅であることは、ユダとタマルとの間に(家族の)モラルの感覚を再び惹起し、緊張を高める。そのことは又、12節bの名詞「羊の毛を切る者」と13節の動詞「羊の毛を切る」との対応のなかで、ユダが喪に服した後に社会復帰し、やや祝祭的な雰囲気をかもし出し、次のステップにおけるユダとタマルの出来事へと舞台を提供していく。 A 14. タマルはやもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ティムナへ行く 途中のエナイムの入り口に座った。シェラが成人したのに、自分がその妻にして もらえないと分かったからである。 B 15. ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。[16] ユダは路傍にいる 彼女に近寄って、「さあ、あなたの所に入らせてくれ」と言ったが、彼女が 自分の嫁だとは気付かなかった。 a 彼女は言った、「わたしの所にお入りになるのなら、何をくださいますか」。 [17] ユダは答えた、「群れの中から子山羊一匹、送り届けよう」。 X x しかし彼女は言った、「でも、それを送り届けてくださるまで、保障の品を 下さい」[18] ユダは言った、「どんな保障がいいのか」。 a′ 彼女は答えた、「あなたの紐の付いた印章と、持ってらっしゃるその杖です」。 B1 ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうしてユダによって身ごもった。 A1 19. タマルはそこを立ち去り、ベールを脱いで、再びやもめの着物を着た。 この場面は、同心円的パターン(ABXBA)。 Xの部分は、更に、XxとXaに区分けされるが、この部分がタマルの計画の中心をなす。タマルはユダに保証の品を要求するが、それは生まれてくる子どもだけでは「その親」を認知するための充分な証拠とならないことを知っていたからである。 Baとa’は相称的な「疑問―答え」のパターンを構成する。また、ユダの快楽の要求B15はB1によってことが運ばれるが、ユダの意に反して証拠品が取り上げられてしまう。 AとA1は、タマルのきびきびした行動を浮かび上がらせる。 A 20. ユダは子山羊を友人のアドラム人の手に託して送り届け、女から保障の品を 取り戻そうとしたが、その女は見つからなかった。 B 21. 友人が土地の人々に、「エナイムの路傍にいた神殿娼婦は、どこにいる でしょうか」と尋ねると、 X 人々は「ここには、神殿娼婦などいたことがありません」と答えた B1 22. 友人はユダのところに戻って来て言った、「神殿娼婦などここにはいたことが ありま せん」。 A1 23. ユダは言った、「では、あの品はあの女にそのままやっておこう。さもないと、 われわれが物笑いの種になるから。とにかく、わたしは子山羊を届けたのだが、 女が見つからなかったのだから」。 第4場面の三番目のエピソード。 AとA1はアドラム人によるタマル探索が失敗したことで対応する。 BとB1はアドラム人がティムナで尋ねた言葉を再び繰り返すことで対応する。原文では、タマルのここの箇所ではタマルの固有名詞は一度も使われず、「彼女」という代名詞で語られる。これはタマルの隠匿的な行動を暗示している。 20節でユダは女性の探索を依頼する際に「イッシャー」という言葉を用いるが、これは「妻」という意味を持ち、知らず知らずユダは「妻」を求めていることを暗示する。その妻が今や身なりを変えた嫁タマルであることが物語の展開に芳香を添える。 A 24. 三ヶ月ほどたって、「あなたの嫁タマルは姦淫し、しかも、姦淫によってみごもり ました」とユダに告げる者があったので、ユダは言った、「あの女を引きずり出し て焼き殺してしまえ」。 A1 25. ところが、引きずりだされようとしたとき、タマルはしゅうとに使いをやって言っ た「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです」。 B 彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖が、どなたのものか -お調べください」。 B1 26. ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女のほうが正しい。わたしが彼女を息子の シェラに与えなかったからだ」。ユダは再びタマルを知ることがなかった。(深層) 第4場面の四番目のエピソードである。ある意味では、この物語のクライマックスとも言える。AABBは二重パラレルと呼ぶことが出来る。 AA1はタマルの妊娠を語る。Aでユダはタマル姦淫お嫌疑で彼女を焼き殺そうとするが、それは同時に自分の子孫を焼き殺す行為でもある。義理の父と義理の娘との抜き差しならない関係が緊張を高める。 ユダはBとB1に至るまで性的関係の相手がタマルであることを知ることが出来ない。 この第4場面がこの物語の多くの部分を占める。それはタマルによって計画されたドラマティックな筋であり、この緊張を経てはじめて再びユダの家に均衡が(家族)が回復される。 タマルは自分の正統な権利であるシェラとのレビラト婚がユダによってないがしろにされているのを悟って、自らの運命を自らの手で獲得しようと行動する。 ユダはタマルに取られた印章と杖によって、自分がシェラをタマルに与えなかった過失(罪)を認める。タマルはこれによって、自分の命と位置を獲得し、更に自分のお腹にいるユダの子孫の命を守ることになる。 第5場面:創世記38章27-30節の構造 導入 27. 彼女の出産の時が来たが、胎内には双子がいた。 A 28 . 彼女の出産の時、一人が手を出したので、 B 助産婦は、「これが先に出た」と言い、真っ赤な糸を取ってその手に結んだ。 [29] ところがその子は手を引っ込めてしまった。 X すると、見よ、もう一人のほうが出てきたので、助産婦は言った。「なんとまあ、 この子は人を出し抜いたりして」。そこで、この子はペレツ(出し抜き)と 名付けられた B1 30. その後から、手に真っ赤な糸を結んだ方の子が出てきた。この子はゼラ(真っ赤) と名付けられた。 A1 この子はゼラ(真っ赤)と名付けられた。 ABXBAのパターン。家族の均衡が回復される状態を描く。 AとA1は最初に手を出したゼラ、BとB1はペレツ。ペレツはゼラの長子の権をぬけがけする。 Xはペレズの誕生である。この部分には詩的な単語「見よ」が添えられており、恐らくこの「見よ」によって、あのダビデの父祖となるペレズが誕生するのだという意図がこめられている。 こうして、われわれは聖書における物語技法の優れた一事例を再び見たことになる。