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​講義・講演の記録

第1回アガペー講義  「アガペー研究の道筋」

第1回アガペー講義

アガペー研究第一回  「アガペー研究の道筋」            2016.12.3                                                    遠藤 徹  問題:キリスト教的愛とはどういうものか。キリスト教は「愛の宗教」だと言われるときの「愛」とはどういうものか?キリスト教の中心的教えである「愛」とはどういうものか。 →この「愛とはどういうものか」を問題にすることは「キリスト教とはどういうものか」を問題にすることに他ならない。キリスト教の本質を問うこと。  今述べた「愛」をより正確には「アガペー」と呼ぶことが適切。キリスト教の聖典は聖書、特に新約聖書。新約聖書はギリシア語で書かれているが、「愛」(「愛す」)と訳されている元のギリシア語のほとんどは「アガペー」(「アガパオー」)。但しほとんどであって、全部ではない。ほんの少しだが「フィリア」(「フィレオー」)という語も同じく「愛」(「愛す」)と訳されている。(→「アガペー」と「フィリア」は違うのか、違わないのかという問題が起こる。)  キリスト教が説く「愛」とはどういうものかという問題は、キリスト教に価値を見出す人(キリスト教徒)の誰もが問わずにいられない問題であり続けて来た。クリスチャンは多かれ少なかれこれを問題にして来た。説教をする方々は一層これを問題にして来た。その場合のテキストは言うまでもなく新約聖書。新約聖書には「アガペー」・「アガパオー」という言葉を用いて愛を教えている箇所もあれば、そういう言葉を用いていなくても愛(アガペー)を教えている箇所が無数にある。「新約聖書とはとはどういう書物ですか」との質問には色々な答え方があるだろうが、一つの答え方は、「新約聖書は、特に福音書の部分で、イエス・キリストはどのように愛を実践したか、またどのように愛を教えたかを書いている本であり、使徒書の部分もそれに倣って、どう愛すべきかを説いている本です」というものだろう。聖書は愛(アガペー)の教えの無限の宝庫。それを丹念に掘り起こし、それを研いてその輝きを表し出す営みは今後も無限に行われ続けるだろう。  そういう中で「アガペー研究」(「学問的なアガペー研究」)はどういうことをするのか。例えば説教者が聖書を丹念に調べるのと違うことをするのか、同じ事をするのか。  答は両方である。真っ先に言わなければならないことは、学問的研究も聖書を丹念に読み、調べるということを疎かにすることはいささかもなく、反対にそれが最も基礎的な、最も重要なことであることをしっかりと認め、それに全身全霊を注ぐということ。→この学問的研究は聖書の註解書を書き上げることになる。(「註解的〔釈義的〕研究」)  しかし、第二に言わなければならないことは、それだけにとどまることはなく、その上でさらにそれ以外のことも調べる。  それ以外のことで真っ先に行われることはそれに近いものとの比較を行って、異と同とを見極めること。すなわち、比較(論的)研究。例えば新種の動物が見つかれば、真っ先にそれと近い、似ているものを集めてきて、比較し、異同を調べ、その上で、これまでに見つかっていなかった新種か、それともこれまでのどれかの一種かと判定するが、それと同様のことをする。ところで、先に言ったように、新約聖書には「アガペー」という言葉と「フィリア」という言葉があるが、両者が近いことは誰もが認めている。しかしそれでは全く同じか、それとも少しは違うかということが問題になり、その点では見解が分かれている。(日本語でも「あいす(愛す)」と「めでる(愛でる)」とは近いだろう。しかしぴったり同じではないだろう。)  実は「アガペー」に近い言葉は、ギリシア語の場合、「フィリア」だけではない。極めて重要な言葉として、新約聖書には一度も出て来ないけれども、「エロース」がある。また同じく新約聖書には出てこないけれども、「ストルゲー」という言葉もある。そこで「アガペー」・「フィリア」・「エロース」・「ストルゲー」はどこが共通で、どこが違うかということが重要な問題となる。  これらの比較は、それぞれがどういう場面(脈絡・文脈)で使われるかを見極めて行われる。例えば親子の間で(のみ)使われるか、男女の間で(のみ)使われるか。神と人間との間で使われるか。人間と物との間で使われるか。穏やかな関係で使われるか。激烈な関係で使われるか。親しい間でのみ使われるか、敵対的な関係でも使われるか。‥‥‥‥(日本語でも「愛す」と「愛でる」と「慈しむ」と「恋する」とはどう違うかはそれぞれがどういう場面で使われるかを見て行って、見極める。)  アガペーに関して、こういう比較論的研究を行った人と著作は多い。 ◆キルケゴール・S 『愛の業』(キルケゴール著作集15,16)、白水社、1964年 ◆ニーグレン・A 『アガペーとエロース』(岸千年・大内弘助訳、新教出版社、1963年)                           (Nygren, Anders, Eros och Agape, 1930) ◆ド・ルージュモン・ドニ 『愛について――エロースとアガペー』、鈴木健郎、川村克己訳、岩波書店、1967(1959年) ◆ダーシー・W.C. 『愛のロゴスとパトス』、井筒俊彦・三邊文子訳、未来社、1957年 ◆ルイス ・C.S. 『四つの愛』蛭沼寿雄訳、(「C・S・ルイス著作集2」新教出版社、1995年)など。  中でも、最も有名で、最も大きな影響を与えて来たものはニーグレンの『アガペーとエロース』。今回の講義でもこれは取り上げずにはいられない。  比較論的研究と言えば、以上のようなものが普通だが、それとは違う研究もある。それは「アガペー」・「フィリア」・「エロース」・「ストルゲー」という四つの言葉の意味合いを比較研究するもの。(語義の比較論的研究。)先程のものは言葉の意味合いを研究するのではない。そうではなく、日本語の「愛す」・「愛でる」・「慈しむ」・「恋する」で言えば、それぞれは何をどのような特徴のもとに愛すか(どういう性格の愛か)を問題にする。そしてそれを掴むためには、例えば「愛でる」で言えば、「愛でる」と表現される場合をできるだけたくさん集め、それらを全部網羅するような愛し方の特徴をとらえる。例えば「愛でる」という言葉が用いられている場面を多数取り上げると、ほとんどが愛すは愛すでも、「我が子を愛でる」・「孫を愛でる」・「花を愛でる」・「香を愛でる」などと使い、「やれ可愛い」、「やれ美しい」と少々大騒ぎしながら愛すことを言うことが分かる。一方「恋する」は男女間の独特の愛し方に使うのであり、恋愛のことを言う。――こう解説するのが愛の性格・特徴を問題にする比較論的研究。しかし言葉そのものの意義を探るとすると、真っ先に語源は何だろうかということが問題になり、「愛でる」は文語では「めづ」で、「めづらしい」(稀に見る)とつながりがあることが分かり、「珍しがる」つまり「稀に見る可愛さ(美しさ)だとちやほやする」というのが基本の意味だと分かる。「恋する」は文語では「こう(恋う)」だが、これは日本語では「こう(乞う)」と一つで、要するに「自分にないものをほしがる」というのが原義だろうと探り当てる。こういうことを他の二語にも行って比較するのが「語義の比較論的研究」。  もちろん二つの比較論的研究は密接で、語義の比較論的研究が基礎となり、それをも視野に入れながら様態(愛し方)の比較論的研究を行って、初めて十全な比較論的研究が行われることになる。  こうしてアガペー研究にはⅠ.聖書研究(聖書の中に描かれている愛の徹底的研究)、Ⅱ.(アガペー以外の愛との)比較論的研究があるのだが、それだけにとどまらない。  アガペーは聖書の中に基本が描かれているが、それを元にしながら、キリスト教徒は、教会と社会の中で、歴史を通じて、それぞれの時代状況に応じて、絶えず新しくアガペーを実践して来た。その意味ではアガペーはその内実を絶えず発展させ、拡大して来た。そういうアガペーの歴史的な発展を捉えることも重要なアガペー研究の部分であるはず。しかし歴史的に発展して来たものはアガペーだけではない。従って、アガペーはその歴史的な発展の中で、絶えず他の思想に直面しつつ、それとの対峙や調和を生きて来たはず。そこにまた、もう一つの比較論的研究が必要となる。アガペーは他の思想や運動とどう違うのか。現代の思想状況の中でどういう位置にあるのか。果たしてそれは今も世界と歴史を導く指導原理たり得るのか。現代の他の指導原理とどこが、どう、違うのか。――これを追究する研究である。  このような研究は「Ⅲ.歴史的世界および現代におけるアガペーの位置の研究」と名付けてよいかと思われるが、これを行っているものとして挙げられるのは ◆アウトカ、G.『アガペー――愛についての倫理学的研究』(茂泉昭男・佐々木勝彦・佐藤司郎訳、教文館、1994年)である。  本講義は、これらの問題を適宜取り上げて行きたい。  私は最近著書『〈尊びの愛〉としてのアガペー』(教文館)を上梓したが、これは上の中でⅡ.の中の「語義の比較論的研究」に相当することを先ず行い、それに基づいて新たにⅠ.「聖書研究」を行ったもの、また多少Ⅲ.「歴史的世界および現代におけるアガペーの位置の研究」をも行ったものである。  『〈尊びの愛〉としてのアガペー』とあるところから分かるように、私が調べたところでは、「アガペー」とか「アガパオー」という言葉は「アガマイ」(a;gamai:驚く、感嘆する、賛嘆する、敬う)という語と語源的につながっていて、「愛す」と言っても、相手に高い価値を見出して「尊んで愛す」ことを言うらしい。「アガペー」は尊んで愛す愛、「尊びの愛」らしいのである。神に対しては、「神を愛す」よりも「神を尊び愛す」と言う方がふさわしいと思われるが、ギリシア語の聖書はそれにふさわしく「神をアガパオー」と言っているのである。逆に言えば、「神をアガパオー」というギリシア語は「神を愛す」と訳すのではなく、「神を尊び愛す」と訳した方が正確で、適切だと言えそうなのである。  このように「アガパオー」・「アガペー」という語の根本の、基本的な意味は「尊び愛す」・「尊びの愛」だということは学問的にはまだ問題にされ得るかもしれないが、私は徹底して調べて行き着いているところなので、この講義はそのことは問題にはせず、このことを基本に据えて、その先に進みたい。  さて、いよいよ「尊びの愛としてのアガペー」の追究に向かうのであるが、しかしいったい「尊ぶ」とはどういうことを言うのか。そのことを真っ先に掴んでおくことが必要であるように私は感じさせられて来ている。「尊ぶ」という言葉は戦前に生まれ、或る程度育った人間にはピンと来た。しかし戦後生まれの人にはどうもそうではないらしい。戦争の終結と共に、およそ「尊ぶ」ということを一切ゴミ箱に捨てる運動や風潮が世に蔓延したからである。  一つの具体的事例から入ろう。

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