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​講義・講演の記録

第3回アガペー講義 ニーグレンのアガペー思想 (I)

第3回アガペー講義            ニーグレンのアガペー思想 (I)                                              遠藤 徹 ◇ニーグレン(Anders Samuel Nygren  1890~1978): スウェーデンのルター派神学者。ルンド大学教授。ルンド派神学の旗頭。ナチスの教会政策に反対し、その運動を指導。代表的著書:『アガペーとエロース』(原書:Anders Nygren: Eros och Agape, 1930)、『ロマ書講解』。 ◇『アガペーとエロース』の日本語訳:岸千年・大内弘助訳、新教出版社、1963年、(絶版。ただし第一巻だけは昨年再版され、購入可能。) ◇「キリスト教の愛=アガペーの本質を、ギリシャ的な愛=エロースとの対決において徹底的に究明した古典的名著。」(教文館の図書紹介の解説) ◇高校教科書に見られる「アガペー」と「エロース」の解説とそこに見られるニーグレンの影響。 ◆「放蕩のかぎりをつくし、落ちぶれて帰ってきた息子をやさしくだきかかえる父親に神をたとえて、神の愛がどんなものであるかを教えた。そのような神の愛は、アガペーという言葉で表現されるが、それは他者を生かす無差別、無償の愛であり、ギリシア的な、自分に欠けたより価値の高いものを求める愛であるエロスとは異なる。」(東京書籍) ◆「エロスは、真・善・美のような価値あるものを求めて天上をあこがれていく『求める愛』であるのに対して、アガペーは、……(中略)……どんな価値のない者に対しても 無条件に上から注ぎかける無差別の『与える愛』である。」(山川出版) ◆「アガペーとしての愛は、価値や報いがあるからそのものを愛するというのではなく、無価値と思われるものをこそ愛し、はげまし、勇気づけてくれるものである。この愛は無差別平等の無償の愛として万人にそそがれる。」「魂をイデアへと向かわせる情念を、エロスという。完全なものへの思墓であるエロスは、人間の徳を向上させる原動力となる。」(清水書院) ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ♅1.アガペー研究の講義に当たって、なぜニーグレンを先ず取り上げるのか ◆①学生当時の教会内のニーグレン思想の多大な影響・浸透、②ニーグレン『アガペーとエロース』の購読――アガペー概念の哲学的に鋭利な分析の書物、圧倒的に詳細な、徹底した、理路整然とした、本格的なアガペー研究の書物として、生涯をかけて付き合うべきものと思われた。③少なからざる反発も。アガペー研究のために必読の書物であることは間違いない。 ◆私のアガペー研究はニーグレンの思想の重要性を認めつつも、それとの対決から出発したと言ってよく、また著書『〈尊びの愛〉としてのアガペー』もこの両面が基軸をなしていると言ってよい。 ♅2.ニーグレン:『アガペーとエロース』の概要    Ⅰ.書物の成り立ち(構成) 二つの部分に分けられる。第1巻 アガペー(キリスト教的愛)(1)の本質の探求。中でも福音書とパウロの言動の分析が重要。第2巻 アガペー思想の歴史とその批判  Ⅱ.福音書のイエスの教えを通してのアガペー(愛)の本質的特徴の析出 ※アガペー(愛)の掟からではなく、イエスの宣教のメッセージ(2)からの出発。理由はアガペー(愛)の掟は元々は旧約聖書での、つまりユダヤ教での教えであり、福音書の中でイエスがそれを取り上げるときには、新しい意味合いが込められたはずだからであろう。 ※新約聖書の中では、「アガペー」という言葉は、厳密には、神の愛だけを言う、とニーグレンはみなす。   (1)アガペー(愛)は自発的で、“動機づけられない” ⇒資料Ⓐ   (2)アガペー(愛)は価値の違いに関わりない   (3)アガペー(愛)は創造的である (4)アガペー(愛)は交わりを創出する  以上の特徴と密接なこととして、アガペー(愛)は比例配分の「正義」を越える「不合理な」愛(3)であり、七度を七十倍するまで赦す「限りない(無限の)」愛であり、条件付きで愛すのでなく「無条件の」愛であるということも言われる。 Ⅲ.福音書の「アガペー(愛)の掟」(4)の解釈 ※掟を考察するに当たって根本となる重要な前提:神への愛も隣人への愛も神の愛に原型を持っている。従って上で見た神のアガペー(愛)の本質的特徴は神へのアガペー(愛)にも隣人へのアガペー(愛)にも当てはまる――こうニーグレンは言う。この主張に私(遠藤)は全く同感であり、これを「根本前提」と呼ぶことにする。 ✜第一のアガペー(愛)の掟:主なる汝の神を愛すべし 根本前提に基づいて、神の愛が無条件のものであるように、神への愛も無条件でなければならない。神の愛が人間の善悪を問題にしないように、神への愛も神の善悪を問題にしないものでなければならない。もし人間が神に何らかの価値を見出し、それを獲得したいとの理由から神を愛するとすれば、神の価値を人間が計り、その上で人間の決断で神を愛するということになるであろう。神が「主」であるのではなく、人間が「主」になってしまう。→「最高善」である方としての神への信仰の排除。→「不合理なるが故に我信ず」(5)の信仰。第一のアガペー(愛)の掟は「神への絶対服従こそが人間の神へのアガペー(愛)だ」というものだ。⇒資料Ⓑ ✜第二のアガペー(愛)の掟:おのれのごとく汝の隣を愛すべし  (一)この掟も、第一の掟と同様に、神の愛に原型を持っており、従って、[1]第二の戒めは第一の戒めと切り離されてはならない。[2]第二の戒めは第一の戒めに似ている。 [1]隣人への愛の戒め(第二の戒め)を神への愛の戒め(第一の戒め)から切り離し、独立させてしまうときには、もはやそれはキリスト教の隣人愛の戒めではなくなってしまう。⇒資料Ⓒ [2]隣人愛もまた自発的で、『動機づけられない(誘発されない)』ものである。相手の力によって喚起されるものではなく、「創造力」によって、人々の間に「新たな交わりをもたらす」。イエスは人間の愛と神の愛を、また自然な人間の愛情と、神の愛に根ざしている愛(アガペー)とを、はっきり区別しておられる。神の愛の標準で計れば、自然な愛情は決して深い意味の愛ではなく、自分に恩恵をもたらす人たちを含むところまで拡張された、自己愛の一形式にすぎない。キリスト教の隣人愛は、神御自身の愛の反映である。この愛の中に、原型と基礎とを持つのである。 (二)二つの掟は依然として二つである。第二の掟を第一の掟に還元すること、具体的には、隣人愛を「私の隣人の内におられる神」への愛と説くことは誤りである。理由は(イ)聖書にそういう教えはない。(ロ)私の現実の隣人は人間としての欠点を種々持った、必ずしも好ましくない人間であろう。(6)そういう隣人をそのままに受け入れて愛するのでなく、その中に神を見て、言い換えれば何とか高い価値を見立てて、そういう価値を含むものとして隣人を愛そうとすることは、合理的理由に基づく愛であろうが、しかし価値に誘発される愛であり、誘発されずに自発的に愛するというあのアガペー(愛)の本質に反している。 (三)二つの掟は二つだけであって、第三の掟をそれに付け加えることはできない。「第三の掟」とは「自分を愛すべし」という掟のこと。「隣人を自分のように愛しなさい」とは「隣人を、自分を愛すように、愛しなさい」であり、ここには「隣人を愛しなさい」と「自分を愛しなさい」の二つの掟が含まれているのではないか、と思われて来る。しかしニーグレンは「自分を愛しなさい」という第三の掟があるという考えを認めない。なぜなら①誰でも自分のことは命じられなくても自然に愛しているのだから、こういう命令はあるはずがない。⇒資料D ②それだけでなく、自然な自己愛はとかく自分中心であるから、むしろ第二の掟は実際には「自分を愛すことを克服または放棄して隣人を愛せ」なのだ。⇒資料Ⓔ⇒「自己愛の掟」は存在するのか、否か。――大問題。 (四)「あなたの隣人を愛しなさい」は「あなたの敵を愛しなさい」を含んでいる。神のアガペー(愛)が善人をも悪人をも等しく愛す愛である以上、「(人間も)あなたの敵を愛しなさい」があるのは当然。第二の掟の他に第三の掟としてあるのではない。第二の掟は「隣人か敵かどうかにかかわりなく(を問題にせずに)愛しなさい」なのだ。隣人愛は神の愛に原型をもっているということがここで程明らかになることはない。敵を愛す人間の愛は罪人を愛す神の愛に原型を持っている。隣人愛はここで自発的で創造的なアガペー(愛)の本質を十全に顕わすのである。⇒資料Ⓕ

(1)日本語で「アガペー」と言うときは、「キリスト教的な愛」「聖書が説いている愛」のことだとみなしてよい。 (2)その代表は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)や「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)。 (3)善人を愛し悪人を憎むことは筋が取っていて「合理的」であるのに対して、善人と悪人を等しく愛すということは不合理である。朝早くから働いた人と夕方に働いた人に等しく1デナリを与えることは不合理な神の愛を表している。 (4)イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40) (5)ラテン語でcredo quia absurdum。信仰の対象は理性を超えていると考える立場。 キリスト教信仰の二つの態度「知らんがために我信ず」 cred ut intelligam.と「信ぜんがために我知解す」 intelligo ut credam.に対比する (6)ニーグレンはこう言うが、マタイ25:32-46(「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」‥‥「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」)はどうかという疑問が生まれる。

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