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​講義・講演の記録

アガペー講義 第4回:ニーグレンのアガペー思想への批判(続き)

アガペー講義 第4回:ニーグレンのアガペー思想への批判(続き)

<前回の復習>

♅1.ニーグレン:『アガペーとエロース』の概要 〔1〕 Ⅰ.書物の成り立ち(構成)二つの部分に分けられる。第1巻 アガペー(キリスト教的愛)[1]の本質の探求。中でも福音書とパウロの言動の分析が重要。第2巻 アガペー思想の歴史とその批判Ⅱ.福音書のイエスの教えを通してのアガペー(愛)の本質的特徴の析出※アガペー(愛)の掟からではなく、イエスの宣教のメッセージ([2])からの出発。理由はアガペー(愛)の掟は元々は旧約聖書での、つまりユダヤ教での教えであり、福音書の中でイエスがそれを取り上げるときには、新しい意味合いが込められたはずだからであろう。※新約聖書の中では、「アガペー」という言葉は、厳密には、神の愛だけを言う、とニーグレンはみなす。  (1)アガペー(愛)は自発的で、“動機づけられない”  (2)アガペー(愛)は価値の違いに関わりない  (3)アガペー(愛)は創造的である(4)アガペー(愛)は交わりを創出する 以上の特徴と密接なこととして、アガペー(愛)は「不合理な」[3]愛であり、「限りない(無限の)」愛であり、「無条件の」愛であるということも言われる。Ⅲ.福音書の「アガペー(愛)の掟」([4])の解釈※掟を考察するに当たって根本となる重要な前提:神への愛も隣人への愛も神の愛に原型を持っている。従って上で見た神のアガペー(愛)の本質的特徴は神へのアガペー(愛)にも隣人へのアガペー(愛)にも当てはまる――こうニーグレンは言う。この主張に私(遠藤)は全く同感であり、これを「根本前提」と呼ぶことにする。✜第一のアガペー(愛)の掟:主なる汝の神を愛すべし根本前提に基づいて、神の愛が無条件のものであるように、神への愛も無条件でなければならない。神の愛が人間の善悪を問題にしないように、神への愛も神の善悪を問題にしないものでなければならない。もし人間が神に何らかの価値を見出し、それを獲得したいとの理由から神を愛するとすれば、神の価値を人間が計り、その上で人間の決断で神を愛するということになるであろう。神が「主」であるのではなく、人間が「主」になってしまう。→「最高善」である方としての神への信仰の排除。→「不合理なるが故に我信ず」の信仰。第一のアガペー(愛)の掟は「神への絶対服従こそが人間の神へのアガペー(愛)だ」というものだ。(「主なる汝の神に絶対服従すべし」と言い換えてよいのだ。)✜第二のアガペー(愛)の掟:おのれのごとく汝の隣を愛すべし (一)この掟も、第一の掟と同様に、神の愛に原型を持っており、従って、[1]第二の戒めは第一の戒めと切り離されてはならない。[2]第二の戒めは第一の戒めに似ている。[1]隣人への愛の戒め(第二の戒め)を神への愛の戒め(第一の戒め)から切り離し、独立させてしまうときには、もはやそれはキリスト教の隣人愛の戒めではなくなってしまう。[2]隣人愛もまた自発的で、『動機づけられない(誘発されない)』ものである。相手の価値によって喚起されるものではなく、「創造力」によって、人々の間に「新たな交わりをもたらす」。イエスは人間の愛と神の愛を、また自然な人間の愛情と、神の愛に根ざしている愛(アガペー)とを、はっきり区別しておられる。神の愛の標準で計れば、自然な愛情は決して深い意味の愛ではなく、自分に恩恵をもたらす人たちを含むところまで拡張された、自己愛の一形式にすぎない。キリスト教の隣人愛は、神御自身の愛の反映である。この愛の中に、原型と基礎とを持つのである。(二)二つの掟は依然として二つである。第二の掟を第一の掟に還元すること、具体的には、隣人愛を「私の隣人の内におられる神」への愛と説くことは誤りである。(三)二つの掟は二つだけであって、第三の掟をそれに付け加えることはできない。ニーグレンは「自分を愛しなさい」という第三の掟があるという考えを認めない。なぜなら① 誰でも自分のことは命じられなくても自然に愛しているのだから、こういう命令はあるはずがない。②それだけでなく、自然な自己愛はとかく自分中心であるから、むしろ第二の掟は実際には「自分を愛すことを克服または放棄して隣人を愛せ」なのだ。⇒「自己愛の掟」は存在するのか、否か。――大問題。(四)「あなたの隣人を愛しなさい」は「あなたの敵を愛しなさい」を含んでいる。神のアガペー(愛)が善人をも悪人をも等しく愛す愛である以上、「(人間も)あなたの敵を愛しなさい」があるのは当然。第二の掟は「隣人か敵かどうかにかかわりなく愛しなさい」なのだ。隣人愛は神の愛に原型をもっているということがここで程明らかになることはない。敵を愛す人間の愛は罪人を愛す神の愛に原型を持っている。隣人愛はここで自発的で創造的なアガペー(愛)の本質を十全に顕わすのである。

<ここから今回>

♅2.ニーグレン:『アガペーとエロース』の概要 〔2〕 

ニーグレンは最初に福音書のイエスの教えからアガペーの本質的特徴を析出したが、福音書を通して示されたイエスのアガペーの観念は、パウロによって、「十字架のアガペー」[5]として、より厳密なものにされたと見ている。つまり、あのアガペーの4つの特徴はパウロにおいて一層厳密に、また明確にされたと見るのである。 (Ⅰ)パウロの回心の場面での神のアガペー (a)アガペーが「動機づけられない愛」であることについて 「動機づけられない愛」、つまり「正当な理由のない愛」、つまり「対象の価値に左右されない愛」「善人をも悪人をも等しく愛す愛」がパウロの回心において程鮮明に示されたことはない。なぜなら、ご自分の弟子達を迫害していたパウロにキリストはアガペー(愛)で迫ったからである。⇒資料A (b)アガペーは「神が人間に到る道」であることについて パウロの回心は他の普通の人の回心の場合と決定的に異なっていたとニーグレンは見る。通常の場合には人は神の命令から遠く離れた生活をしていた中で神からの呼びかけを受けて回心するのであるが、パウロはひたすら神の命令に近くあろうと死にものぐるいの格闘を続けていた中で、イエスの呼びかけを受けて回心したのである。普通の人は神に至る道から遠ざかっていたことを悔いて回心したのであるが、パウロは自覚的に神に至る道を突き進んでいたただ中で回心したのである。それはパウロにとってそもそも人間が自らの努力によって神に到ろうとすることの間違いを悟らせることであった。⇒資料B (Ⅱ)アガペーと十字架の神学 ニーグレンは更に、「第一部、第一章、第二節、4.アガペーと十字架の神学」の箇所で、「パウロはイエスの十字架に示された神の愛の洞察を通して‥‥‥‥愛の、嘗て与えられた、或いはおよそ与えられ得る、最も崇高な概念へ到達している」と述べる。⇒資料C 回心の場面でのアガペーの分析がパウロ個人に臨んだアガペーの分析であるの対して、この箇所での「十字架のアガペー」の分析は全人類に開かれているアガペーの分析であると言ってよいであろう。ここでは、一言で言って、「神が人間に到る道」が一層大きな枠組みの下に、一層深化された形で、そして一層正確に、まさに“神学的”に、捉えられるのである。 こうしてパウロの十字架のアガペーの神学において「福音書のアガペー思想はその特有の意味を伴いながらパウロのもとで一層先にまで進んで生きており、さらに彼の個人的な宗教的発展と結びついて強化されている。」(73) ♅3.ニーグレンの『アガペーとエロース』への批判  以上のニーグレンの主張は一部(即ち、①最高善としての神への愛(アガペー)の否定、②自己への愛(アガペー)の否定)に疑問を残しても、極めて周到なものであるように思われるが、しかし更に詳しく見ると、細部で、思いもかけない、驚くべき主張をしていることに気付かされる。それは神の愛(アガペー)の前では人間の「悔い改め」や「謙遜」は無意味だという主張である。⇒資料D しかしイエスは宣教に当たって、真っ先に「悔い改めよ」と呼びかけられたのではないか。⇒資料E  それなのになぜニーグレンはそれに反するようなことを主張するのか。  それは、ニーグレンは「謙遜」や「悔い改め」という言葉で、自分の行いが正しいと認められるために意図的にそうする場合のことを考えているからである[6]。悔い改めれば、或いは謙遜であれば、神からその立派さが認められて救われるだろうと考えてそうする、つまりニーグレンの言う「人間が神に到る道」の一つとしてそうする場合を考えているのである。⇒資料F  悔い改めれば救われるということだとすると、善人だから神は救ってくださるということになり、神の愛は善人をも悪人をも救ってくださる愛――無条件の愛・絶対的な愛ではなくなる。  しかしそれではイエスはなぜ「悔い改めよ」と呼びかけられたのか?イエスとパウロとは違うのか?違う場合どちらが上なのか[7]?――これは深刻な問題である。  問題は、悔い改めや謙遜というものはいつもそういう正しい行いの証明としてなされるのかである。そういう場合もあるだろう。しかしすべてがそうか?イエスが求めておられるのはそうでない悔い改めやへりくだりではないか。では、そうではない悔い改めや謙遜とはどういうものか?それは神の呼びかけに「応答」するものとしてのそれらである。自分が認められるために自分が、自分の意志で、そうするのではない。神の絶対的な愛に出会って、神の愛に“焼かれ”て、それに応えざるを得なくなって、そこへと導き入れられる悔い改めと謙遜である。もしこういう表現が許されるなら、神の働きが95%、人間の働きは5%であるようなそれらである。(⇒資料G)神の働きには無関係に、100%自分の意志で行うような悔い改めや謙遜ではない。しかし、ニーグレンは「悔い改め」と「謙遜」でそういう場合しか考えず、それは「人間が神に到る道」だとして排除しているのである。  ここにニーグレンの主張の問題点が一つはっきりした。神の愛(アガペー)に応答するものとしての人間の愛(アガペー)が考えられていない。実はそれが既に見た疑問点にも当てはまるのではないか。「自己愛」を彼は否定した。しかし神が私を尊い宝として愛してくださる、その愛に応えて、応答して、その愛に助け、支えられながら、私が自分を尊い宝として愛すことは許されていないか?!神ご自身によって許されてはいないか!  また絶対的な愛の方である神に出会って、その愛に焼かれて、その愛を最高の「善」(善きもの、素晴らしいもの)と感じ、その愛の主(神)を応答の内に尊び愛すことは許されていないか。それは「利己的」なのか!「自己中心的」なのか!95%が神の働きであるときでも、自己中心的なのか。  この問題点の指摘は極めて重要で、決定的である。実は、そもそもアガペーは善悪に無頓着な愛だという出発点の主張が正しいか、ということすらが問われる。神は善人をも悪人をも愛すが、では善人は善へ向かうように、悪人は悪へ向かうように、愛すか。そうではなく、両方を善へと向かうように愛すのではないか?!善悪(価値)に無差別な(indifferent)愛ではなく、はっきりと善への愛ではないか。神は悪人をも愛す。しかし「悪」を愛してはおられない。  但し、このように神の愛が善のみを目指すということは神の愛がもっぱら「善に動機づけられる」、つまり善によって引き起こされる、ということなのではない。神から独立に、神の愛以前に、善が存在して、それに導かれて、神が愛すのではない。そうではなく、神の愛は善を創造するのである。神の愛は善を創造しつつ人間を善へと導くのである。神の愛の自発性、創造性は否定されない。従ってまた、神の愛は人間との交わりを創造するということも否定されない。神は太陽のような愛ですべての人間を愛すが、だからといって、人間は物体のように必ず明るく暖かくなるとは限らず、自らの自由意志で、そうなるか、そうならないか、分かれるのである。

[1]日本語で「アガペー」と言うときは、「キリスト教的な愛」「聖書が説いている愛」のことだとみなしてよい。 [2]その代表は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)や「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)。 [3]善人を愛し悪人を憎むことは筋が取っていて「合理的」であるのに対して、善人と悪人を等しく愛すということは不合理である。朝早くから働いた人と夕方に働いた人に等しく1デナリを与えることは不合理な神の愛を表している。 [4]イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40) [5]「十字架のアガペー」という言葉はルターが自分の神学を「十字架の神学」と呼んだことを踏まえて言われている。(ルター「十字架だけがわれわれの神学である。Crux sola est nostra theologia.」) [6]パウロは「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える」と述べているが、この「義とされるための律法の行い」としての「悔い改め」や「謙遜」を考えているのである。 [7]ここにはパウロ-ルター-ニーグレンという線があることが分かる。但し、パウロ自身は悔い改めの意義を否定はしなかった。⇒ピリピ2:7-8「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって(tapeino,w)、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順(u`ph,kooj)でした。」

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