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​講義・講演の記録

第22回 預言、預言者、預言書

  • 2017年10月17日
  • 読了時間: 11分

旧約聖書 第22回講議 一年ぶりにこの場に立って、旧約聖書の話をする。 「敬して遠ざける」という論語の一節がある(雍也第六22)。孔子の弟子の一人が「智」とは何かについて尋ねたとき、孔子は「人としてなすべき道につとめること(人民を感化、教導すること)。鬼神に対して、尊敬の念を持ちながらも、一定の距離を置くこと。このようであれば、智ということが出来る」と諭した。そこから転じて、「尊敬するように見せかけて、内心は疎んじる。敬遠する」の意。日本聖公会は説教壇、ないしは聖書朗読壇で旧約聖書に尊敬が払われ、これが読まれる。しかし、どのくらい真摯に旧約聖書が教会の説教で、そして教会の神学で取り上げられているかとなると、心もとない。 今回、読者には幾らか紛らわしい「預言、預言者、預言書」というタイトルにしたのには理由がある。その要点は、タイトルの最後の「預言書」という表現にある。預言と預言者は表裏一体の不可分の関係にある。しかし、預言書と、預言―預言者とは、預言者なしには理解出来ないという意味では不可分ではあるが、両者の間にはある種の乖離が存在する。なぜなら、預言書は預言者たちが手ずから書いたものではなく、後の人々によって収集.(蒐集)・編纂されたものであり、必ずしも両者(或いは三者)はイコールではないからである。この事情を踏まえておくことが、旧約聖書を学問的に学ぶ際の基本的な認識である。 まず最初に、 これから数回(2回?)に分けて上記のテーマでお話をしてみたい。そして、預言(預言者、預言書)というテーマを取り上げるに際しては、以下のような問題が潜んでいることを前もって示唆しておきたい。 宗教社会学的アプローチによる問題設定 イスラエルの預言とは何か。イスラエルの預言というからには、当然のこととしてイスラエルの預言者とは何かということが問題となる。 それは職業なのか。もし、職業であるなら、イスラエルの預言者は総じて職業預言者ということになる。もし、職業預言というものが存在したとするなら、どういう社会的な背景の中で生存(生活)が可能になるのか。具体的にいえば、職業預言者の生活を支える経済的な裏付けとは何か。もし、職業預言(者)という集団が存在したなら、彼らの生活を支えた経済的基盤とは何か。その経済的基盤とは、当然のこととして、彼らが集団として抱いた思想とは不可分の関係にあったことが推測される。この思想の傾向は、誰のために、何のために、どういう目的で形成されたのか。福祉・安寧・シャローム(安全・平和・安心・平安)をだれかに与えるための思想か。或いは、それとは反対の極に立つ災禍・不安・不安定などの性質を持った思想を抱いたのか。誰のため、何のため、どういう目的でという問題を考慮に入れる時、当然のこととして、対象が問題となるが(民衆、イスラエル=ユダ、支配者)、彼らの生存を支えたパトロン(支配者?民衆?)がいたのかどうか。パトロンのための思想はどういう傾向に傾くか。とりわけ、イスラエル―ユダが歴史の中で直面した隣国・大国との間の「戦時」、不安定な農耕事情における「凶作」、隣国・大国との間の「政治的不安定」などの状況に直面したとき、職業預言はどういう思想を生み出すか。 パトロンと呼ばれる人々は、いわば雇い主であり、社会的には上位の位置に自分の身を置く人々であるが、このパトロンとはやや異なる位置に立って支持を与える人々もおり、これを今仮に支持者と呼んでおこう。この支持者は場合によっては多数(少数)の一般民衆であったり、あるいはこれとは別に社会的に一定の地位や財力、影響力を行使することの出来る人々であったりする。民衆の支持は時として大きな影響力を行使するケースもあり、また、後者の支持層も無視できない影響力を行使する。更には、預言者を支持する人々、または預言者によって影響力を与えられた人々で、弟子という範疇で表現してもそう遠くない人々も存在したと思われる。 職業預言と同列に置くことが難しいと思われるが、なお預言者と呼ばれる人々も存在したのか(したようである)。彼らはしばしば単独者として、或いは少数者として(マイノリティー)、独自の思想や行動を公に表し、その思想と行動が支配者層にしばしば対立し、時として弾圧の対象となった。職業預言者でない彼らを、預言者と呼ぶことは社会学的に正当な措置であろうか。エレミヤやヤエゼキエルなどは彼らの預言書の中ではっきりと祭司の出自であることが語られるが、最終的に正典化が」進むと彼らは「預言者」(ネビイーム)というカテゴリーの中に収められることになる。すなわち、旧約聖書が「律法・預言者・諸書」というカテゴリー別に編纂される歴史を通して。 仮に、預言(者)が支持されるための条件とは何か。勿論、彼らの思想の性格が、それを生み出す条件としても、またその条件に規定された結果においても、重要であったことは当然のことであろうが、更に一歩進めれば、彼らの語ったことが現実のものとなったかどうか(成就=実現)は無視することの出来ない動機(Motiv)を形成したのではないか。その動機とは、最初は前722/721年のアッシリアによる北王国崩壊とその捕囚による人々の驚愕であり、決定的となったのは前587年のバビロン捕囚であることは、今日の旧約聖書学が徐々に明らかにしていることであるが、そこには預言者の思想がなぜ災禍預言であったかという理由が見て取れる。すなわち、国の崩壊・消滅という歴史事件が、嘗て国政や外交について体制側とは異なる視点から語った人々の思想を、今や「預言」として人々の注意と自覚を促し、蒐集・編纂へと導いた。これらの収集者・編纂者がどういう人々であったかは明瞭ではないが、国家の存亡を憂い、また国家の宗教的・政治的・知的遺産の価値を十分に認識していた人々であることはほぼ間違いないであろうし、いわば国家の中にあって指導的な、インテレクチュアルな人々(=祭司?書記?政治家?)であったことが推測される。こうした人々が、「預言書」という纏まりを編纂したと仮定すると、その纏まりと、その前の部分の「律法」とはいかなる関係にあるのであろうか。いかなる関係にあるのかという疑問は、律法という部分はどういう性格を持ち、その律法は預言(預言者、預言書)に対していかなるスタンスを持っているのかと言い換えることも出来る。 新約聖書による預言理解・ まず、新約聖書の使徒言行録3章12節以下の聖ペテロの説教の中の数節と第一ペテロ1章10-12節に注目したい。 「しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このように実現なさったのです」。(18節) 「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています」。(24節) 「この救いについては、あなた方に与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。/ 預言者たちは 自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それが誰を、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。/ 彼らは、そのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなた方に告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです」。(第一ペテロ1章10-12節) 上記の新約聖書による預言(預言者、預言書)理解が、基本的には、二つの線に導かれていることが浮かび上がる。一つは、旧約聖書の預言者たちは皆、イエス・キリストに照準を合わせた、統一された使信(メッセージ)を語ったと見なされていること。もう一つは、この使信は、その当然の帰結(目標?)として、新約聖書記者たちが実現したと考える「救いの時」、すなわち彼らの「今、現在」に関わるものと見なされている点である。この二つの点が、多少のニュアンスの相違はあるとしても、新約聖書の理解する預言(預言者、預言書)理解のパターンである。 しかし、実は、この新約聖書による二つの預言理解こそ、現代の旧約聖書学がそれをそのまま受け取るのが困難であると感じる点でもある。それは、現代の旧約聖書学が個々の預言書(=預言者、=預言)に見出すのは、預言者と呼ばれる人々が活動したそれぞれの時代時代に向かって彼らが語ったのは、多様な「災禍預言」(Unheilsprophetie=「災禍預言者」Unheilspropheten)であり、新約聖書のイエスに焦点を合わせる一つの使信、救いの時に照準を合わせる一つの使信として、旧約聖書の預言を理解するのは難しく、ここに旧約聖書預言と新約聖書との間にギャップを感じ取らざるを得ないからである。 そこで、この旧約聖書学の理解と新約聖書との間のギャップの原因とは何かということが探求されねばならない。それはギャップなのか。それとも、それはギャップではなく、新約聖書が理解した旧約聖書預言と新約聖書との間には架け橋があり、その要因(理由、要素、原因)を発見することが出来るかどうかという点である。 その推測される主因が、現在我々が手にする「預言書」という形態(form、pattern)である。これを分りやすく言うと、誰かの手によってある時期に収集(蒐集)され、編集の筆を被って、現在の形態に編集された預言書の中にそのヒントを見つけるというものである。 更には、新約聖書における「律法と預言」のペアによる特殊な理解 マタイ11章13節 「すべての預言者(pa,ntej oi` profh/tai)と律法(o` no,moj)が預言したのは(evprofh,teusan)、ヨハネの時までである」。ここでは「来るべき約束」を告げた者として預言者が最初に言及され、かつ律法も預言機能を付与されていることに注意。律法に対する預言の重要性を強調していると考えられる。また預言者と律法が語ったことの歴史的射程はバプテスマのヨハネの時までであって、ヨハネは、マタイによれば、預言者と律法のペアの線の最後に立つものであって、14節の「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」という言葉にそのことがよく表わされている。 ルカ16章16節 「律法と預言者はヨハネの時までである。それ以来、神の福音が告げ知らされている」。マタイと比較すると、ルカの表現は簡潔であるが、マタイと違い、律法が最初に言及される。これは、ヘブライ語聖書の順序によく叶う表現である。 ルカ16章29節、31節 「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい』」。「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」。金持ちとラザロの譬えの一節であるが、ここでは律法はモーセという名前によって置き換えられている。すなわち律法と預言の順序で旧約聖書が引用されている。 ルカ24章27節 「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自身について書かれていることを説明された」。エマオ途上のイエスの言動についての要約である。ここでも、ルカは、律法をモーセの名によって置き換えている。「聖書全体にわたり」とは、モーセと預言者と他の聖書についての言及であろうが、それが何を指すかは明らかでない。だが、ルカによれば、聖書全体がイエスについての証言である、という理解。 ヨハネ1章45節 「フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ』」。ヨハネはここで、イエスについてモーセが律法に記した(εγραΨεν)ことを始めに述べ、ついで預言者たちも書いた(ευρηκαμεν)とすることによって、律法とイエスの関係を預言者以上に律法と結びつけていることが推測される。実際、「書いた」と訳されるギリシャ語のευρισκωは、「見出す」、「出会う」、「認める」、「理解する」の意が強く、「書いた」とするモーセの律法の直接性からやや遠ざかる。 この他、新約聖書に於ける律法と預言への言及の例 使徒言行録24章14「私は、彼らが『分派(αιρεσιν、αιρεσιs)』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したここと、預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」。エルサレムで、総督フィリックスの前でユダヤ人の告発に対して弁明するパウロ。因みに、ここで「分派」と言われる表現は、先立つ5節で「ナザレ人(たち)の分派」(τηs των Ναζωραιων αιρεσεωs)とといういう表現を取っており、キリスト教の歴史を知るうえで興味深い表現である。 使徒言行録28章23節 「パウロは朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである」。ローマで説教するパウロ。ここでは、律法と預言がイエスについて説明するために欠かせない資料であったということが語られている。 旧約聖書の律法と預言、ないしは預言と律法が、イエスを理解するために欠かせない資料であったことが、新約聖書自身の証言によってなされる。しかし、福音書を読むと、イエスの十字架上の苦難が(マタ16章21節以下、マル8章31節-9章1節、ルカ9章22-27節)かなり中心的な問題を構成して入るが(イザヤ書53章の苦難の僕や預言者たちの苦難か?)、復活に関しては旧約的背景を確認するのは容易ではない。 また、新約聖書がイエスのメシア性を弁明するための資料として大きく依存する旧約聖書の律法と預言のペアが、どうして律法と預言として成立してきたのかという点についても、なお調査(研究)すべき課題が残っている。

 
 

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