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​講義・講演の記録

第2回講義 日本的なものから見たユダヤ的なもの

  • 小林 進
  • 2012年11月30日
  • 読了時間: 8分

第2回講義

日本的なものから見たユダヤ的なもの

                                  小林 進

はじめに   

ピーターとラリー。対象との距離感、適切な距離、ある程度の距離。自分のアイデンティティー画どこにあるか。視点の芽生え。異同。

最近と昔の読書から

 イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』。ユダヤ人の安全に対するコストの使用と、日本人の安全コストに関する感覚。水はただ(生活、風土、歴史、地勢)。

 森嶋道夫『日本人と英国人』。距離感の持ち方の相違。小此木啓吾の「やまあらし理論」との相似。

  加藤周一『日本人とは何か』。

 過去に目を遣って浮かんでくるもの。日本人の自然観(「人間の行為の規範は自然に内在する権威である。自然が美しいというのは日本人の自然への愛の告白である」)。現在の日本人とは何かを問題とする時、「日本人何を欲するか」が重要であり、日本人にとってそれが明らかでない。

 主に西欧と日本の比較。芸術における音楽(和音階の西欧)と美術(絵画・彫刻・建築・造園の日本)。形而上学・神秘思想の西欧と敬虔主義的・実際的な思想の日本。

 加頭周一の日本人論は「解釈」という問題に軸を置いているように思われる。

  *ツべタン・トドロフ&デュクロ『言語学事典』。「解釈は、解釈をする対象と少なくとも同量、同価を必要とする」。従って、解釈とは同量、同価以上となるのはある意味で必然である。同じ母国語で解釈する場合と、外国語を対象として解釈する場合。

北森嘉蔵『日本人と聖書』(岡潔『日本のこころ』、鈴木大拙『日本的霊性』)。「いき」と野暮、

義理と人情、色即是空、「もののあわれ」、芸術と宗教、無常、寛容と不寛容。

 北森の問いの前提。日本的なものと聖書とを付き合わせてみる試み。幕末から明治にかけて西洋との接触によっておこった日本の近代化における一つの局面としてのキリスト教との接触。日本的な精神の伝統を聖書とどう付き合わせるか。近代化における、日本人の「日本人離れ」。キリスト教化されることは「日本人らしくなくなってゆくこと」。

 日本の近代化(=日本人の近代化)が即西洋化であり、それは非日本化であり、日本の伝統から脱出するという図式になる。「日本が近代化されていくことと日本の伝統とが一致するような道を探求しなければなない」という北森嘉蔵の問題意識。日本的なものの一つとしての「無常」「無常観」。

   秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は思ほゆるかも 

                 万葉集巻第八 秋雑歌一五六四 日置長枝娘子の歌

   彼らは一夜の寝のごとく朝にはえいづる青草のごとし

   朝にはえいでてさかえ夕にはかられて枯るるなり  

                 詩編九〇編五節、六節

   人間の無常ということで聖書(旧約)と日本人の心情の一端が最もよく接近する一例。

   北森の論理は、上記の二つの例を「無常」という視点で比較する。その際、自己と他者の総合依存という仏教  の基本樽縁起法に則り、キリスト教側からの問いを提出する。

   すなわち仏教がいう無常という考え方が世界の(そして人間の)理法ならば(無常観)、それに対してわれわ  れが抱く「無常感」というのがあって、それは理法に止まらず、悲劇的で詠嘆されるべきものであり、その極み  が死である。この無常感は無常観に対する矛盾として現れてくるものではないか。もし仏教が道元(1200-1253  年、鎌倉初期の禅僧、曹洞宗の開祖、1244年越前に永平寺を開く)の『正法眼蔵』における「草木叢林」、「人  物身心」、「国土山河」の本性が無常であり、その無常が仏性ならば(無常即仏性)、それは「調和」であり、  矛盾は出て来ず、悲劇性はないことになる。矛盾と悲劇性を持たないという所で「即」(否定転換)によって無  常は常住に行く、無常は往生に行くことになる。

   しかし、詩編九〇編では人間がそこからこぼれてしまった元の場所があったと語る所に、仏教の思想と大きな  違いがある(「主よなんぢは往古より世々われらの居所にてましませり)、人間の罪により神の怒りに会い、迷  い出た、こぼれ落ちた)。

   次いで、亀井勝一郎の『愛の無常について』に言及。亀井は「愛の」という具体性を採りいれることによって  、愛が常ならず、すなわち愛でさえ無常であり、悲劇的であることを説得力をもって語った。キリスト教的な視   点に立ってみても、愛という無常は解決されなければならない問題である。

   へブル書第二章五節以下の九節の言葉「神の恵みによって」(οπωs χαριτιθεου)が、ある写  本では「神なしに(χωριs θεου)」となっている。北森は後者が本来と見る。それによって、キリス  トの死は、神は永遠者であり人間は無常なものであるという構図を取りながら、神が永遠者に止まらずに無常の  中に身を曝して、無常なものになって死んだという所に救いがあると見る。

  *比較するという視点(XとY)。比較とは異同の発見とその解釈である。では軸を何処に(何に)据えるか(X=日本、日本人)。軸をどこに据えるかによって解釈は多様になる。   異同の発見はXの矯正か、純化か、中和(中庸)か。比較が必要だという認識(衝撃)と、比較も過ぎるとステレオタイプになるという感覚。明治以降の日本人の経験。小異を捨て、大同につく(石原新党)。

 旧約聖書の幾つかの特徴

  モーセ五書(Pentateuchトーラー)、モーセ四書(Tetrateuch)、モーセ六書(Hexateuch)、或いはサムエル記 と列王記に至る九書。律法、預言、諸書のカテゴリー分布による正典への結集。紀元前2世紀の『シラ書』、『ア リステアスの手紙』、紀元後70年のエルサレム崩壊後のヤブネの会議による正典化。

旧約聖書生成における第二神殿時代以降(前522/21年)の祭司の貢献。民族の運命を世界史の中で考えた。その歴史観の中で民族の救済の歴史。

  預言書に終末論への萌芽。「その日」(イザ2章11節、17節、20節、4章1節)「終わりの日」(イザ2章1節、ミカ4章1節)、「見よ、このような日が来る」(エレ23章5節、7節)等々。

  ヨブ記における「神義論」。神の世界支配は正しくなされているか、という問い。

  コヘレトにおける世界観。無常。無常と信仰。

  後期ユダヤ教における終末論の発展。メシヤ像の展開。

レスター・L・グレイビー(Lester E.Grabbe 英国ハル大学)「ハスモン王朝時代におけるユダヤ人の宗教」(2012年夏東京で開催された「国際聖書フォーラム」の講演)からの引用

ヘブライ語聖書(旧約聖書)では、「油を注がれた者」(ヘブライ語ではマーシーアッハ、masiah、アラム語でメーシーハー、mesiha )という人物像の中心は王であるが(たとえば、サムエル記上一〇章一節、一六章一節、一三節、二四章七節、詩編二編)、大祭司もまた油を注がれその称号(マーシーアッハ)で呼ばれる(レビ記七-八章、一〇章七節、詩編一三三編二節)。王と祭司という二つの概念は、第二神殿時代(紀元前539-紀元後70年)を通してメシア問題に関する思索に消息や方向を提供したと思われる。またヘブライ語聖書にはこの世的な未来の王という考え方がある。幾つかの箇所では、やがて「凱旋するダビデ」(David redivivus)、すなわちイスラエルを再興して支配するダビデをモデルとした理想的な王が言及される(エレミヤ書三〇章九節、エゼキエル書三四章二三-二四節、三七章二四-二五節)。

 終末的な様相を帯びた様々な人物像がクムラン出土のテキストにも見られ、互いに深い関係があるようである。それぞれのテキストは歴史の経過と共にその人物像を発展、変化させ、おそらく当初メシア的な人物はただ一人とだけ考えられたのであろうが、やがて複数の人物像へと展開していく。たとえば、『戦いの書』(the War Scroll、1QM)は繰り返し光の子らと闇の子らの終末的な戦いを描くが、メシア的な人物には全く触れない。『ダマスコ文書』(the Damascus Document)は「アロンとイスラエルの油を注がれた者」(CD 一二章二三節-一三章一節)と述べる。これは一人のメシアを意味するのか、それとも二人なのか。同じダマスコ文書(CD)一九章一〇-一一節が「アロンとイスラエルのメシア」という時は、一人の人物を考えているようである。他方、『教団規定』(the Community Rule)は「アロンとイスラエルの預言者とメシアたち」と語る(1QS 九章一一節)。もう一つ重要な表現が「メシア規定」(the Messianic Rule、1QSa 二章一一節)と呼ばれるものに見られる。そこではアロンのメシアが一人、そしてイスラエルのメシアが一人、それぞれ別の人物が描かれているようである。

天的なメシアを描く最も古いテキストの一つが『11クムラン・メルキゼデク』(11QMelchizedek)であり、おそらく紀元前一世紀に遡ると思われる。創世記一四章一八-二〇節で言及されるメルキゼデクは(詩編一一〇編四節とへブライ人への手紙五章及び七勝も参照)、ここでは天的な存在であり、サタンと対立する。そのある箇所では、「油注がれた者」(メシア)について次のような言葉が見られる。「時は今やメルキゼデクの『恵みの年』であり、彼の軍隊、すなわち神の聖なる民にも及び、審判が支配する時であり、そう書かれている・・・。この意味を解くならば、山々とは預言者たちのことで(ある)・・・。その使者はダニエル書で言われているように、聖霊によって油注がれたものである」(二章九節、一七-一八節、言及されるダニエル書は九章二五節)。別のクムラン出土テキストである『4Qメシア黙示録』(4Q521 1 ii 1-2)では天的なメシアが言及されているように見える。「天は油注がれた者に耳を傾け、その中にいるすべての者は聖なる者の教えに背かない」。

 このほか幾つかのテキストや著作では、メシア的な人物像が全く見られないことに注意する必要がある(たとえば、知恵の書(ソロモンの智慧)、アレキサンドリアのフィロンの著作、『アブラハムの契約』など)。これらが強調するのは、個人的な終末論と、死後時を経ずしてなされる個人の審判であり、魂こそが人格の本質を成すと見ている。こうした著作は、民族的な性格を持っていた終末論を、広くユダヤの民衆の関心に沿うよう昇華させたと言うことが出来る。

 幾つかの研究は、初期のユダヤ教では終末論が重要であったと強調する。しかし、そうした終末論の強調は大袈裟であって、当時多くのユダヤ人は終末論などには些かの関心もなかった。現存するテキストを研究してみると、死後個人はどうなるのか、また世界はどうなるのかについて様々な考え方があったことが分かる。ヘブライ語聖書の多くはそうした死後の生命を考えていた様子はない。生命は厳密には死で終わりを告げるとされるが、しかし、何かはっきりしない生命の痕跡が黄泉(シェオル)で存続するかもしれないと考える余地は残された(ホメロスの詩で描かれる冥府(ハーデス)にも似たようなものが多くある)。

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