表現の自由について
表現の自由について
ペテロ 遠藤 徹
聖書の中で「愛」と訳されている元のギリシア語は、よく知られているように、「アガペー」であるが、愛は愛でもどういう愛なのか。私が調べて来たところでは、それは相手を「尊ぶ」愛であることが次第に明らかになって来ている。「キリスト教は愛の宗教だ」と言われ、それはその通りであるが、もっと正確に言うと、「キリスト教は尊びの愛の宗教だ」と言うべきなのである。このことはやがてきちんと発表するつもりである。
ところで、そうであるとき、キリスト教は世の中の文化的活動に尊びの愛が欠落することがないかにも絶えず注意の目を向け、それが認められるときには、それに対して助言・提言・忠告・警告を発することにも努めなければならないであろう。この点で今一つどうしても緊急に取り上げなければならない問題があると思われる。
それは表現の自由を侵されたとの怒りが欧米を中心に火と燃え上がった少し前の出来事である。すなわち、北朝鮮の金正恩第一書記を暗殺する映画がアメリカで作製され、公開されかけたことに対して北朝鮮がサイバー攻撃をしたと報じられ、それが表現の自由を侵すものだと、非難と攻撃が渦巻いているさなかに、今度はイスラム教の教祖や指導者を度々風刺画化して来たフランスの新聞社をイスラム教徒が銃撃し、多数の犠牲者を生んだことに対して、やはり表現の自由を踏みにじる許すべからざる行動だと、欧米社会で非難と糾弾が囂々で、三百万人とも言われる規模でデモが各地で繰り広げられたと報じられたことである。いったい表現の自由とは本当にどんな表現でも無制限に許されるということなのか。それは神なのか。つまりそれに仕えれば如何なる活動も許される絶対至上の一者なのか。今実在している人間を暗殺する小説や芝居を書くことは許されることなのか。有力政治家だけでなく、どんな市民に対してもそれは許されないことではないか。それを許したなら、子供や若者の間に少なからずある言葉による「いじめ」も許さなければならなくなるのではないか。また、或る宗教の教祖や指導者を風刺画にすることが本当に許されることなのか。その宗教を信じている人にとって、それはその人自身を殺害するのに等しい暴力ではないか。風刺に特有のことは、相手を笑いものにして揶揄する(からかう)ことであり、一言で言って「バカにする」ことである。それを最も崇高な存在として崇められている対象に無神経に適用してこき下ろす権利が誰にあるか。欧米では神すらも風刺される自由があると誇らしげに語られていたが、それは神が死んでいる人々の間でだけの話しに過ぎず、そういう人々が表現の自由を神に祭り上げる一方で、自分達が精神的に殺害する相手の痛みに気づくこともないのであれば、何を誇っているのか。もし「自由」という言葉に誇りとそれにふさわしい気概と品位を込めようとするなら、それは「表現の自由」と呼ぶことはできず、「表現の暴力」と呼ぶべきではないか。表現の暴力は許されるのか。精神的な殺人は許されるのか。
こう述べることは、言論の暴力に対して武力の暴力で対抗することが正当だと述べることでは全くない。どんな言論・表現の暴力に対してでも、武力の暴力で応じることの不当さを訴え、糾弾することは健全で正当である。しかしそれと同様に言論と表現の暴力に対しても非難と糾弾が向けられないなら、「表現の自由」・「言論の自由」は実際にはどこにも存在していないと言わなければならないであろう。実際、一方の暴力だけを責めてもう一方に目を向けることができないなら、私たちは精神的に自由ではない。
実は、筆者はフランスの事件の直後に、「表現の暴力は許されるか」と題して、以上の主旨の文章を極度に圧縮して某新聞社に投稿したが、翌日の朝刊に大筋で同様の主旨の他の原稿が採用されて、筆者のものは掲載されなかった。しかしその当の朝(2015年1月15日)のNHKのテレビのニュースで、バチカンのフランシスコ教皇が宗教的指導者を風刺することは許されることではないとの見解を公式に表明したことが伝えられ、尊びの愛(アガペー)に基づいてあるべき秩序が公に示されたことに深い共感と満足を覚えたのであった。
こう言ってよいであろう。「表現の自由」は最大限に守られなければならない。しかしそれは無制限ではあり得ない。相手と自らの双方を尊び愛すことの上でなければ表現の自由(の権利)は成立しないのであって、相手を尊ぶことを欠く表現の自由(の権利)は存在しない。それは「表現の暴力」と呼ぶべきであり、武力の暴力を禁じるのと同様に表現の暴力を禁じる世界的規模での協定なり規約なりを設けることが今求められている。