謝罪と赦罪の神学
謝罪と赦罪の神学
遠藤 徹 今回問題にしたいことは、謝罪(罪を詫びること)と赦罪(罪を赦すこと)について聖書はどう教えているかをできるだけ正確に読み解くことです。聖書と言っても、新約聖書が中心であり、新約聖書の教えとはイエス・キリストの教えですから、イエス・キリストは謝罪と赦罪についてどう教えているか、です。ところでイエス・キリストの教えはその一番の中心を捉えれば、「愛」(アガペー)ですから、問題にしたいことは、別の言い方をすれば、「アガペー」のものさしに照らすとき、謝罪や、赦罪は、どうあるべきかを見究めることです。 イエス・キリストの教えを見るのですから、これから述べることはひとまずクリスチャンの人に向かって語っています。クリスチャンではない方にも当てはまる可能性がありますが、またクリスチャン以外の方にも指針となればと願っていますが、今はそのことは考慮外にして、ひとまずクリスチャンを対象にします。ですから、韓国人と日本人について述べる部分がありますが、それはひとまずクリスチャンである韓国人とクリスチャンである日本人を念頭に置いて述べていることとしてお受け止めください。 §1.アガペーのものさし では、聖書が教える《アガペーのものさし》とはどういうものでしょうか。それは私たちにお馴染みのものでしょう。マタイ22:37-40にそれが示されています。 マタイ22:37-40 37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 これによれば、《アガペーの第一のものさし》は『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』です。これは長いので、「全身全霊で神を愛しなさい」と言い換えることは許されるでしょう。 また《第二のものさし》は『隣人を自分のように愛しなさい』です。 この二つが《アガペーのものさし》ですが、しかし、これには幾つかの重要な補足説明が必要であり、それをしっかり併せて掴んでおくことが求められます。 1.この二つのものさしは重要さでは同等で、どちらも等しく重要であるけれども、第一、第二の順番の違いはあります。従って、第一抜きの第二はありません。第一が先ず確立され、その下で第二がある、ということです。つまり、神を尊び愛すということなしに、自分と隣人とを尊び愛しなさいということではないわけです。これはもっとよく見るとどういうことでしょう。 2.《第二のものさし》の前に《第一のものさし》があるのですが、実は《第一のものさし》の前に更に、二つの土台になっていることがあるというのが聖書の教えだと思われます。 それは、神はご自身が創られたすべてのものを愛しておられるということです[1]。「すべてのもの」を人間に限っていえば、「神は(ご自身が創られた)すべて人間を等しく愛しておられる」です。 これは「ものさし」ではありません。むしろ神が事実そうであるという事実を述べているものです。この事実が一番の根本に土台としてありますから、《第一のものさし》も《第二のものさし》もこの事実を根拠(理由)にして成立しています。なぜ《第一のものさし》があるのか。なぜ人間は神を愛さなければならないのか。それは神が先に人間を愛してくださっているからです。自分が愛を受けている相手を愛さないということ(――そういう「恩知らず」)は正しくないからです。なぜ《第二のものさし》はあるのか。なぜ人間は隣人を自分のように愛さなければならないのか。それは隣人をも私をも神が等しく愛して下さっているからです。私を創られた神が私を愛しておられるから、私は私自身を愛さなければなりません[2]。同じように隣人を作られた神が隣人を愛しておられるから、私は隣人を愛さなければならないのです。私のことも隣人のことも神は等しく愛しておられるから、私は隣人と自分とを等しく愛さなければならないのです。それが「あなたは隣人を自分のように愛さなければならない」の正確な意味です。 3.これに対して、なぜ神が私を愛してくださるなら私は私を愛さなければならないのか、という疑問が生まれるかも知れません。なぜ神が隣人を愛されるなら私は隣人を愛さなければならないのか。それは神によって創られた人間は神に倣わなければならないからです。(もう少し詳しく言えば、神によって創られた人間はその神の創造の意思に沿うように生きなければならないからです。)《第一のものさし》「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」に従うとは、具体的には、一つには、この「神に倣う」ということ、「神の意思に沿うように生きる」ということです。この「神の意思に沿うように生きなければならない」を《アガペーの第一のものさし》の変形①と呼ぶことにします。 ひとまず、以上のように「《アガペーのものさし》」を押さえておいて、本題に入ります。ただし予め申せば、《アガペーのものさし》の補足は以上に尽きず、まだまだあります。それは話の進展に応じて触れることにします。 §2.聖書の中に「隣人に謝罪しなさい」という教えはあるか 「あなたに罪を犯した人をあなたは赦しなさい」という教えは新約聖書に山ほどありますが、「あなたはあなたが罪を犯した相手に謝りなさい」という教えは山ほどあるでしょうか。 こう問うてみると、そういう教えは私には直ぐには思い当たらないですが、みなさんはどうですか。 神様にお詫びすべきことは最も重要なこととして数限りなく教えられています。「私たちの罪をお赦しください」は神に向かって赦罪を求める謝罪の祈りですが、「主の祈り」の中にどっかりとあります。しかし兄弟――仲間である人間――に向かって「私の罪をお赦しください」と謝ることは教えられているでしょうか[3]。 ルカ17:3には「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が(あなたに対して[4])罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」という言葉があります。ここでは人間が人間に対して犯した罪を当の相手に「悔い改める」ことが言及されています。しかし全体の強調点は罪を犯された側に向かって「戒めなさい」そして「赦しなさい」と教えることにあって、罪を犯した側に「悔い改めなさい」と教えることではないでしょう。どうも聖書には、他人に罪を犯した人間に向かって、その他人の前で「謝罪しなさい」、「懺悔しなさい」、「悔い改めなさい」と説く教えはなさそうなのです。もう少し確認しましょう。 例えば、放蕩息子は父親の前で「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言いますが、これは誠心誠意からの最も深いお詫びの言葉でしょう。しかし、「お父さん」とは神のことを譬えているのであって、譬えでなくすれば、全体は人間が神に対して行う謝罪です。できものだらけの貧しいラザロを顧みなかった大金持ちが「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と言うことも同様で、アブラハムは神を代理しているのです。(大金持ちは人間であるラザロを無視する罪を犯したのですけれども、隣人に対して罪を犯すことは神に対しても罪を犯すことだというのが聖書の重要な考えです。そしてここにまた隣人を愛さないことは隣人の創造者である神を愛さないことである、裏返しにいえば、隣人を尊び愛すことは隣人の創造者である神を尊び愛すことである、という根本の《アガペーのものさし》の変形があります。) 従ってひとまず次のように結論づけてよいのではないでしょうか。――私たちは、新約聖書の中で、隣人に罪を犯したことを神に向かって「お赦しください」と詫びるように強く教えられているが、当の隣人に向かって詫びるようにはそれほどはっきり教えられていない。 これが事実だとして、このことはどう受け止めるべきでしょうか。 二つの対立する考えがあり得るでしょう。 ❶聖書は、人間が、罪を犯した相手の人間に対して、自らの罪を詫びることに重点を置いていない。罪を赦すことこそが無限に重要であって、罪を犯した人が謝ろうが、謝らなかろうが、それは大した問題ではない。というのも、神のアガペー愛は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:22)とイエスが教えておられるとおり、相手がどうであるかに全くかかわりなく愛すのが、そういう「無条件の愛」が、「アガペー愛」だからだ。人間もそれに倣うべきなのだ。ニーグレンはそう言いそうです[5]。 ❷「赦す」ということは罪を犯した人が詫びるということを当然のこととして前提しているのであって、だから多くの場合わざわざ言葉に出して言うことをしていないだけだ。しかし放蕩息子(人間)も詫びながら罪の赦しを父(神)に願い、大金持ちも悔い改め[6]の思いで神の憐れみを乞うている。そもそもイエスが救いのためには悔い改めが必要だと宣言しておられるではないか[7]。無条件に愛して下さる神に対しても罪を犯した人間は謝罪することが求められるとイエスは教えておられる。当然、人間に対して罪を犯した場合も相手に謝罪することが求められるはずだ。 このどちらも正しそうに見える二つの考えはどう整理されるべきでしょうか。 私の理解するところでは、ニーグレンは神が人間に出会う段階のことを言っているのであって、神が人間を救う段階のことは言っていないのだと思われます。イエスは確かに「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われましたけれども、これは、神は、人間に出会う段階では、その人が善人であろうが悪人であろうが、義人であろうが罪人であろうが、そういうことには一切おかまいなしに、無条件の愛を降り注がれる、ということを言っておられるのだと思われます。しかし人間はそういう神の無条件の、無限の、愛を受けたからと言って、必ず善に生きるようになるとは限りません。太陽は光と熱をどんな物にも差別なしに降り注ぎ、それによって物は必ず何程か明るく、暖かくなるでしょうが、人間には自由意志がありますから、無条件の愛を受けたからと言って必ず明るく、暖かい人間になるとは限らない。今まで悪の中に生きてきた人間は、神の無条件の愛に何らか自分の側で「応答」して、「悔い改め」なければ、善に生きるようにはならない。悔い改めて、善へと変えられることが「救われる」ということである。だからイエスは人間に向かって、太陽のような神の愛を語ると共に、それだけでは終わらず、「悔い改めよ」とも言われるのである。――こう私には思われます。 放蕩息子の譬え話に即してこのことを見てみましょう。放蕩息子が帰ってくる前から、彼がいささかも悔いることなく放蕩に身を任せている最中から、父親は毎日門の前で息子を迎えようと立ち尽くしていました。悔い改めようが、悔い改めまいが、変わることなく愛し続けたのです。父親は息子の悔い改めの深さがどうであろうと、それには関係なく、ただ帰ってきたということだけで、喜びに溢れ、きつく抱きしめて迎え入れたでしょう。しかし父親にとってそもそも放蕩息子が後悔して[8]家に向かうということはなくてもよかったでしょうか。それは無価値な、どうでもよい(indfferent)ことだったでしょうか。それはあり得ないことではないでしょうか。どんなに神が無条件に愛されるとしても、そのアガペーに人間が応答する――何らか悔い改める方向で――ことがないならば、父(神)が息子(人間)を拡げられた両手の中に迎え入れるということがそもそも起こらなかったのではないでしょうか。人間の側がどうであろうと、神の側は迎える用意を持って待っているでしょう。それを目指して愛し続けるでしょう。しかし実際に息子が救われることはその用意と愛に応えるように、自分のふしだらな生活を悔いて父親のところへ戻ることによって初めて起こるはずです。 (以上述べたことは、救いの場が開かれる端緒の段階についてだけ言えることではなく、それが成立した後にも言えることです。仮に弟息子が家に戻った後のことも追跡するとして、彼が悔い改めと謙遜の内に真っ直ぐに更生の道を歩む場合と、嫉妬する兄との関係もあって、彼が次第に兄への反感や悪意を募らせ、荒れた生活に陥って行く場合とで、父親の弟息子へのかかわりは変わらないでしょうか。どちらの場合も依然弟を(兄をと同様に)尊び愛すことに変わりはなく、弟が(兄と同様に)「尊い」(――破滅してはならない)存在であることに変わりないでしょうが、しかし悔悛-謙遜-更生と反感-悪意-荒廃はどちらも父のアガペーにとって「価値は等しい」、或いは「価値がない」、のでしょうか。前者を見る父の眼差しは喜びに輝き、無言の内にも一層それを伸ばしていくよう励ますものとなっているのに対して、後者を見る眼差しは悲しみと憂いを含み、無言の内にもそれはあってはならないことを示すものとなっていないでしょうか。どちらの場合にも弟息子に(兄息子に対してと同様)ぴったり一つに寄り添うことに変わりはないでしょうが、しかし前者と後者は父親にとって一方は正価値、もう一方は負価値のものであり、父親はそれぞれに応じて異なった指導を行うのではないでしょうか。弟息子が反感-悪意-荒廃に進んだ場合には、父は何回でも悔い改めを待ち、悔い改めれば「七度を七十倍するまで」赦し、更生へと導いて無限に至るのではないでしょうか。 アガペーは謙遜で悔い改める者にも傲慢で頑なな者にも無限に大きな愛を注ぐ点では異ならないでしょうが、それぞれを導く愛の配慮においては異なる[9]。愛の大きさや深さは変わらなくても、それぞれへの愛し方――愛の働きかけの形――は異なる。――こう言うべきではないでしょうか。) こうして、聖書の教えは、まとめれば、神と人間との間に関しては、神は人間が神に対する罪を謝罪するか否かにかかわりなく、無条件に人間を愛される。しかし人間は神に自分の罪を謝罪しなければ神に自分の罪を赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはできない、というものである。――こう私には思われます。 ところで人間は神の愛に倣って愛すことが求められている(《アガペーの第一のものさし》の言い換え①)のですから、これを人間と人間との関係について当てはめることが求められますが、そうすると、人は自分に罪を犯した人が謝罪するか否かにかかわりなく、その人を無条件に愛すことを求められている。そうしないことは神の目から見れば、その人の罪である。その罪を神に謝罪しない限り、神から赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはできない。また相手の人間(自分に罪を犯した人間)からその赦せないという罪を赦罪されて、救済される(=相手との平和な関係の中に生きる)ことはできない。 これに対して、罪を犯した人間が相手に謝罪しないならば、神の目から見てそれは大きな罪であり、その罪を神に謝罪しない限り、神から赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはなく、また相手の人間から赦罪されて、救済される(=相手との平和な関係の中に生きる)こともできない。――こうなるでしょう。 これを具体的に理解できるように、韓国人(クリスチャン)と日本人(クリスチャン)との関係に置き換えてみるならば、 人間は神の愛に倣って愛すことが求められているから、これを人間と人間との関係について当てはめれば、韓国人は自分に罪を犯した日本人が謝罪するか否かにかかわりなく、日本人を無条件に愛すことを求められている。そうしないことは神の目から見れば、韓国人の罪である。韓国人は日本人を愛せないその罪を神に謝罪しない限り、神から赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはできない。また相手の人間(自分に罪を犯した日本人)にその愛せない罪を謝罪しない限り、日本人からその愛せない罪を赦罪されて、救済される(=日本人との平和な関係の中に生きる)ことはできない。 これに対して、罪を犯した日本人が相手の韓国人に謝罪しないならば、神の目から見てそれは大きな罪であり、その罪を神に謝罪しない限り、神から赦罪されて救済される(=神との平和な関係の中に生きる)ことはできないし、また韓国人から赦罪されて、救済される(=韓国人との平和な関係の中に生きる)こともできない。――こうなるでしょう。 ところで、これが正しい場合、一つの疑問が生まれざるを得ません。それは韓国人が日本人を赦すことと、日本人が詫びることとはどちらが先になされるべきかという問題です。というのも、韓国人は、神の愛に倣うべきで、日本人が悔い改めようと悔い改めまいと、それにかかわりなく、太陽のような愛で愛すべきだということになると、日本人が謝罪しようが、しまいが、赦罪するべきだということになるのではないか、それが《アガペーのものさし》に従って歩む道なのではないか――こう問われるからです。 §3.韓国人が先に日本人を赦すべきか、それとも日本人が先に謝るべきか しかし、韓国人は日本人が謝罪する前に愛すべきだというのが聖書の教えだということは見ましたが、韓国人は日本人が謝罪する前に赦罪すべきだということを見たわけではありません。つまり謝罪する前に「愛す」ということと、謝罪する前に「赦す」ということは同じではなく、韓国人が求められているのは「愛す」方であって、「赦す」方ではありません。では、韓国人は謝罪しない日本人を赦しはしないけれども「愛す」ということになりますが、それは具体的にはどうすることでしょうか。そもそも韓国人が謝罪しない日本人を「愛す」などということがあり得るでしょうか。ひどいことをしながら謝らない相手には憎しみの怒りがこみ上げ、蹴り上げたり、唾を吐きかけたくなるのがせいぜいではないでしょうか。しかしここで是非思い起こすべきことは、「アガペー」は「尊びの愛」だということです。今私たちはクリスチャンとして聖書はどう教えているのかを探っているのであり、聖書で言われる「愛」は「アガペー」でした。「アガペー」は「愛」は「愛」でも、相手を「尊んで愛す愛」でした。韓国人はまさに「敵を愛す」ことが、敵である日本人をアガペーで愛すことが、つまり尊び愛すことが神から求められるのだと思われます。日本人を憎いと思う気持ちを持っていたとしても、しかも「尊び愛す」(アガパオーする)ことを神は求められるのだと思われます。「尊び愛す」というのは「好きで愛す」とか「親しみを感じて愛す」のとは違います。相手に「快さを感じて愛す」のではありません。そうではなく、相手に尊さを期待しながら愛す、相手が尊いことを信じて愛すのだと思います。相手はダメ人間になってはならない、人間として「滅んで」はならない、人間としての尊厳を失ってはならない、という思いで相手に向かうことなのだと思います。実は日本人に向かって謝罪を求めるということが、正確に見究められるなら、それはまさに日本人に尊厳を失わないようにという思いで向かって行く行為なのだと思います。罪を犯しながら、それを謝罪しないというのは人間としての尊厳を失うこと、人間として失格すること、最も甚だしいダメ人間になることです。謝罪を要求するということは、研ぎ澄まされた精神のもとにしっかりと意味を見つめながらなされるときには、相手を尊びながらなされることなのです。しかしそれは難しく、多くの場合、謝罪しない人間を見下し、罵倒する、ざわついた気持ちの内に行われますが。そしてそうである限り、それはアガペーから出てはいないのですが。しかしクリスチャンである韓国人は、謝罪しない日本人に向かって、アガペーの深みから、尊びの愛の内に、「あなたたちは本当はそのままでいてはよくないはずです」と静かに呼びかけつつ謝罪を呼びかけるよう、神から促されているのだと思われます[10]。 このようにして謝罪しない日本人を「愛す」こと――「尊び愛す」こと――を、韓国人は神から求められていると思います。しかしそれは謝罪しない日本人を「赦罪する」ことを求められているということではありません。「赦罪する」ということは、それに先立って相手が「謝罪する」ということがあって初めてできること、成り立つこと、です。こうして、「韓国人が先に日本人を赦すべきか、それとも日本人が先に謝るべきか」という問題への答えは明らかで、言うまでもなく日本人が先に謝罪しなければなりません。クリスチャンである日本人は、韓国人のクリスチャンと共に、相手を尊び愛すことを神から命じられていますが、自分が傷つけた相手に謝罪しないことほど相手を尊び愛していないことはありません。 4.真の謝罪はどうあるべきか こうして、罪を犯した側がまず謝罪することが、神からも、罪を犯した相手からも、求められますが、その謝罪というものはどういうものであるべきでしょうか。当然のこと、いい加減なもの、まやかしのものであることは許されません。それは「誠心誠意」のもの、「真心から」のもの、でなければなりません。どうしたら相手――自分が傷つけてしまった相手――が、本当にこちらが謝っているということを感じてくださるだろうかということに細心の神経を注いで、熟慮の上で、実際の道が選ばれなければなりません。相手が真剣な謝罪と受け止めていないのに、こちらが真剣に謝罪したと言い張ることほど奇妙な、空疎なことはありません[11]。 では、誠心誠意からの謝罪となるためには、どうすることが求められるでしょうか。まず言えることは、謝罪する側は自分が犯した罪の詳細をできるだけ正確にきちんと把握することに努めることだと思われます。被害者側はもちろん被害の詳細の究明に全力を挙げるでしょうが、加害者側もそうしようとするはずです。この究明は被害ないし加害の「事実」の究明ですが、事実を百パーセント正確に突き止めることはしばしば極めて困難です。証拠が残っていない場合には一層です。そこから被害者側と加害者側の究明結果はしばしば異なりますが、その場合には加害者側は被害者側の調査が一定の合理性を含んでいるなら、たとえ被害が自分の側の調査結果よりも深刻なものであっても、そちらを尊重して採用するということが「誠心誠意」からの謝罪の証しなのだと思われます。 この点に関連して、もう一つの重要な《アガペーのものさし》に触れておくことが必要だと思われます。それは一言で言って「アガペーは相手よりも自分から先に尊び愛すのでなければならない」というものさしです。これをイエスはいわゆる「善きサマリア人の譬え話」の中で教えられました。(『〈尊びの愛〉としてのアガペー』184-193頁参照。)要点だけを述べますが、善いサマリア人の譬え話をされた後、イエスは「私の隣人とは誰ですか」と質問した律法学者に、逆に質問し返します――「誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と。この二つの質問は似ていますが、実は反対のところがあります。学者の方は、私の隣人はどこかにいるのだろが、それを教えてください。教えてくれたら、その人を愛しますよ、という姿勢です。しかしイエスはその偽善性を鋭く見抜いていて、隣人というものは自分が何もしないでいてどこかにいるものではない、あなたが先に隣人に「なる」のだ、必要を持つ人の「隣人になる」のだ、と教えておられます。イスラエル人とサマリア人は敵対的な関係にありましたが、それはどちらも相手を愛さない姿勢で向かい合っています。どちらも「相手が愛してくれるなら、こちらも愛そう」という姿勢でにらみ合っているでしょう。そしてそうである限り、いつまでも敵対関係は続くでしょう。それを打ち破るものは唯一「相手がどうであれ、こちらが先に愛す」ことです。ここにまさにあの、悪人であるか、善人であるかを問わずに愛される神の無条件のアガペーに倣うアガペーの道が示されています。神においてはこれは事実です。しかし人間においてはこれは事実ではなく、倣うべきことです。「あなたが先に愛しなさい」は極めて鋭い《アガペーのものさし》です。本当にアガペーが働いているかどうかは、しばしばこのものさしによって見分けられます。「先に」とはまずは時間的に「先に」ということですが、しかしそれだけでなく、双方が合理的に導き出した意見や利害が衝突しているとき、相手(の側の意見や利益)を優先して尊重する「先に」をも含むでしょう。 第二に、これも「真心から」ということに通じることですが、相手が蒙った苦難をできるだけ正確に掴むということは、あらん限り相手の身になって、苦難を自分のこととして追体験することでもあると思われます。「こういう事実があった」とただ頭で観念的に理解するだけでなく、想像力を極限まで働かせて、苦難を自分の身に感じ取ることが神から促されているでしょう。しかし想像力には限界があります。少しでも多く現実のものとして体験するために何よりも必要なことは、事件があった現場に行って、証言を聴くことでしょう。もはや生存者が存在しなくなっているなら、歴史を保存している場所へ行くことでしょう。さらに証言者の記録を読むことでしょう。そういうことをせずに、目を向けようとしないでいるなら、誠実な謝罪の気持ちはないのに他なりません[12]。「そういうことをしたいと願っているが、できない」と「そういうことをするつもりはない」とは雲泥の違いです。前者には誠実な謝罪の気持ちはあっても、後者にはありません。ここでも《アガペーのものさし》がクリスチャンの日本人にはこの意味での誠実な謝罪を命じています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ人への手紙12:15) 5.誰が、誰に、謝罪するのか 誰が、誰に、謝罪するのか。――これは奇妙に感じられる問いかも知れません。当然、危害を加えた人が、被害を蒙った人に、謝罪するのではないか。その通りですが、問題にしたいのは、過去に一国民が別の国民に危害を加えたような場合のことです。当事者だった人が極めて少なくなっているときに、或いはついにいなくなったときに、謝罪は必要なのか。おそらく、公的にきちんとした、双方が認め合う、謝罪と赦罪が行われた場合には、その後は、個々人同士がすることは自由でしょうが、公的には要求されないでしょう。しかし、公的にそれがなされない場合に、どうでしょうか。当然、被害者側はいつまでも謝罪を要求し続けるでしょう。加害者側はそれに応えなくてよいのでしょうか。「私たちの先祖がやったことで、私たちがやったわけではない。なぜ、我々が謝る必要があるのか」でしょうか そもそも被害者側はなぜ先祖が蒙った危害に対する謝罪を求めるのでしょうか。それは言うまでもなく、国民というものは血縁的、即ち肉体的にも、また文化的・精神的にも、歴史を貫いて深く連帯しているからでしょう。過去に一部の国民が負った肉体的・精神的傷は、癒されることがない限り、その後の全国民の中で疼き続けるでしょう。そして同じ連帯性は加害者側の国民にも言えるのですから、先祖が行った加害責任は、どこかで清算されない限り、後代に受け継がれるでしょう。 このことは後代の者が先祖の加害行為を謝罪する場合に忘れてはならない一つの重要なことに思い至らせます。それは、例えば、今の日本人が嘗ての旧日本国民の加害行為を韓国民に謝罪する場合、嘗ての日本人を「向こう側」に見て、そして自分は「こちら側」に立って、「私がやったわけではないが、代わりに私が詫びる」というような意識や姿勢で謝罪することは許されないということです。そうではなく、むしろ、私は「私の血肉になっている加害行為をお詫びします」と述べて謝罪しなければならないのだと思われます。このことは誠心誠意からの謝罪のもう一つの条件を明らかにしているのであって、このような連帯感の中で詫びないこと、罪を自分に無関係なこととして謝罪することは、やはり誠心誠意からの謝罪ではないでしょう。 このことは、更に次のことを見るとき、一層明らかになるでしょう。それは、もし私が旧日本国の時代に生きていて、先祖と同じ状況に置かれたとしたら、私は同じ事をしなかったとは到底言えないだろうということです。仮に私が或る戦争犯罪者と同じような境遇に生まれ、同じような教育を受け、同じような人間関係の中を歩み、その上で同じ場面に居合わせたなら、同じ犯罪を犯さないということはまずあり得なかったとすら言えるでしょう。こう思うとき、私たちは、本当は、先祖の犯罪を自分の犯罪ではないものとして謝罪することはできないのだと思われます。 以上、長きに亘って、誠心誠意からの謝罪を問題にして来ました。まとめれば、誠心誠意からの謝罪とは、①自分から進んで、自身の側の加害行為をできるだけ残らず、詳細に、知ろうと努力すると共に、②可能な限り想像力を働かせて相手が蒙った傷の深さをなぞって汲み取り、③同国民の加害責任を他ならぬみずからの責任として謝罪するものだ、と言えるでしょう。 6.更なる問題――同国人の反対者に対して 以上、《アガペーのものさし》に従いながら真実の謝罪はどうあるはずであるかを見て来たのですが、しかしそれは以上でもう完全に十分だと言えるでしょうか。私には加害者と被害者との間ではこれで十分だと思えますが、それとは別に、加害者側の内部に関して[13]は、もう一つ考慮しなければならない点がありそうに思えます。いえ、謝罪する側が国民全体で一致してそうするなら問題ないでしょうが、今の日韓関係の問題の場合のように、謝罪することに反対する人がいるときにはどうすべきか、という問題が残っていそうに思えます。日本国内で意見が対立しているとき、真心からの赦罪を主張する側はそれに反対する側にどうかかわるべきかの問題です。(韓国国内でも、真心からの謝罪を要求する側とそうでない側との間で同様の問題があるはずです。)
こういう場合に真っ先に起こりがちなことは、誠心誠意謝罪すべきだと主張する側は、自分たちは正義の側に立っているのに対して、相手側は錯誤に陥っていると考えて、下に見ることです。きちんとした信念のもとに自分たちは正しいと考えているのですから、相手側は錯誤に陥っていると考えることは当然で、そこが問題なのではありません。問題はそう考えて相手を「見下ろす」ことです。その具体的な形はいろいろあります。まともに相手にしない(一顧だにしない、鼻先であしらう)とか、揶揄するとか、憤怒するとか、嘲笑するとか、心底から軽蔑するとか‥‥‥。共通なことは自分を優越させ、相手を「見下す」ことです。
これに対して《アガペーのものさし》はどう迫って来るか――これが問題です。もし私たちがこの国内での対立で《アガペーのものさし》にかなうように相手と向かい合っていないなら、私たちが既に国際間でものさしに合格するように相手国に向かい合う道を見出したことは果たして本物だったのか、問われるでしょう。なぜなら、神はすべての人間をアガペーで愛しておられるのであり、人間は神に倣うべきなのですから、「私たちはすべての人をアガペーで愛す(尊び愛す)べきである」(これはアガペーの最も基本的なものさしでしょう)のに、そうしていないなら、国外の人を本当にアガペーで愛すことができていたのか、問われるはずだからです。同じ国の中で意見の対立があるとき、人は自分と反対の意見の人に、また自分自身に、どうかかわるべきか。――ぜひともこのことを問題にしなければなりません。 相手と自分自身とにどうかかわるべきかの問題ですから、真っ先に関係してくるものさしは《第二のものさし》――「隣人を自分のように愛しなさい」でしょう。もっと正確には、「あなたの隣人をあなた自身と同じように尊び愛しなさい」です。相手を「見下す」ことは相手を「尊び愛す」の正反対です。もし私が反対意見の人を見下しているなら、私にアガペーはありません。では、反対意見の相手を尊び愛すことは具体的にはどうすることでしょうか。 何よりも先ず求められることは、相手と「まともにかかわる」こと、つまり真正面から相手に向か合い、相手の意見を聴き取ることに努めることだと思えます。相手はどのように自分の考えの正当性を主張しているのか。こちらが持っている先入観を排除して聴き入り、聴き取ることが求められるでしょう[14]。相手をして十分に語らしめる。もちろん、その上で、自分から見て間違っていると思われることを率直に述べて、答を聴く。要するに十分に「対話」をするということです。私自身の経験から言って、直接の口頭での対話は言葉遣いも意を尽くさないものになりがちであり、感情的にもなり易いので、重大な問題の場合には、書いた言葉を交わすのが望ましいと思います。慎重に書くときには、相手を尊重しているか自分を省みる余裕も出て来ます。乱暴な言葉遣いも訂正されます。《アガペーのものさし》が絶えず問いかけて来ることは「あなたは隣人(相手)を尊び愛しているか」であり、その声に従わずには真実に「まともにかかわる」ことは不可能だとすら言えるでしょう。同時に聞こえてくる問いかけは「あなたは自分を尊び愛しているか」であり、相手に対して感情的に、頭ごなしに、かかわっている“無様な”自身の姿から、少しなりと“威厳を持つ”自身の姿、いえ、“神の前に身を糺して立つ”姿へと促されると思います。
更にもう一つ重要な心得があると思われます。これは本当に努力を要することですが、しかし、それをしないなら相手を「相手にしない」のであり、真の謝罪に至らない責任は相手の側にだけではなく、自分の側にもあるのだと思われます。それは意見が自分と反対の相手と対話していくときには、まず相手の中で素晴らしい点はどこにあるのかを探り、その点に敬意を抱くことを真っ先に相手に伝えることから出発するということです。その努力をせずに、いきなり相手の誤りと思われることに切り込んで行くなら、相手を尊び愛すことは微塵もないのであり、それでは相手に向かって尊びの愛を説く資格はなく、対話を妨げているのも自分の側です。「自分の方が先に相手を尊び愛しなさい」はまたしても確かな、揺るぎない《アガペーのものさし》です。 このものさしに従って対話が開かれるなら、そしてこのものさしに従って対話が行われるなら、それは次第に深まることが予想され、期待されますが、しかし、それでも対話は終局に至るとは必ずしも言い切れません。このような努力を続けて行くとき、しばしば起こることは、突如中断が起こるということです。相手がこちらの言うことを馬鹿げていて、まともにかかわる気にはならないと考えての場合もありますが、逆にこちらに議論では歯が立たないと感じての場合もあるでしょう。しかし、そういう場合には、そのいずれかが分からなくても、ともかくなぜ相手が何の反応もしなくなったのか、自分の側に何か問題がなかったかを、心当たりのありそうなことを探し出して、相手に問いかけることが、相手を尊び愛す道に他ならないでしょう。こちらが真実に相手を大切に、尊く、思っていることが伝わるならば、応答がなく、沈黙のまま終わっても、無駄ではないのだと思います。 このような「対話」の間、常に思い起こされることが求められることは、先程見た、過去の日本人を自分の「向こう側」の、自分と「無縁な」人間だと考えることができなかったように、意見が対立する人間も同様であり、私が相手と同じ境遇に生まれ、同じ教育を受け、同じ人間関係の中にあったなら、同じように言う可能性があるということでしょう[15]。このことに思い至ることは、相手が今のままでよいと考えたり、言ったりすることではありません。そうではなく、相手と一つになって誤りを脱出しようとすることです。このように「一体」となって行われる謝罪こそ、真の誠心誠意からの謝罪でしょう。 5.誠心誠意の謝罪は何をもたらすか 以上、《アガペーのものさし》に照らされながら、真に誠心誠意からのものである謝罪とはどういうものであるはずかを見て来ました。では、このような謝罪は何をもたらすでしょうか。それは必ずや誠心誠意の赦罪を引き起こすと思われます。真心は真心を引き寄せずにはいず、アガペーはアガペーと結ばれずにはいない。――これは聖書に記されている通りの事実であり、法則だと思います。聖書に記されたことを離れても、永久に変わることなく、事実として生起することだと思います。真心から謝罪した者と真心から赦罪した者との出会い。――これほど崇高で高貴な出会いはないと思います。「神の国」(神が統べ治められる人々の輪[16])とはまさしくこのような出会いを言うのだと思われます。《アガペーのものさし》に合格して真実に真心から謝罪した人間は神によって、また相手によって、真実に赦罪され、真に祝福された者となるでしょう。 「主の祈り」を祈ることは、このような「御国」が来ますようにと祈ることであるはずです。 天におられる私たちの父よ、 あなたの御名が聖とされますように。 あなたの御国が来ますように(「神の国」が地上に来ますように。) あなたの御心が天に行われる通り、地にも行われますように。 私たちの罪をお赦しください。 私たちも人を赦します。 私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。
2017年1月16日(完成)
[1] 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創世記1:31) [2] このことをしっかり押さえているなら、第二のものさしは実際は「自己愛を捨てて隣人を愛せ」だというブルトマンやニーグレンの主張は生まれるはずもありません。 [3]兄弟と仲直りしなさいとか、和解しなさいという教えはあります。「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら、供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし(なさい)。」「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」(マタイ5:23-25)これは当然まず自分が最初に詫びることを含んでいそうです。しかしはっきりと「詫びなさい」とは書かれていません。 [4] この箇所は原文には「あなたに対して」に相当する語があり、NJVその他の欧米語訳もそれに忠実です。 [5]「悔い改めも神の愛を動機づけることはできない。」(悔い改めも神の愛の前では何ら価値も意味もない。)ニーグレン『アガペーとエロース』 [6] 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』(ルカ16:30) [7] 「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」(マタ 4: 17)「わたしが来たのは、 正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ 5: 32)「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ 15: 7) [8] 彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』(ルカ15:17-19) [9] この対象の“価値”に応じて愛の配慮が異なることを、愛の配慮は対象の価値に「動機づけられる」と表現してよいであろうか。よいはずである。一方、アガペーが善人をも悪人をも差別なく愛すという点に関しては対象の価値に「動機づけられない」と言って問題ない [10] こういうわけですから、韓国への謝罪を呼びかける私こそは本当に日本を愛す真の愛国者だと思っています。ネットで流れたSBSテレビのニュースには「この男が日本を愛す方法」という少々奇異に思われそうなタイトルが付けられていましたが、それは私がインタビューの中でその主旨の回答をしたのを正確に汲み取ってくださっていたのでした。謝罪を呼びかける私は真に日本人を尊び愛しているのです。 [11] 私が韓国に赦罪訪問したことに対して、或る方が友人から「日本は韓国に何遍謝ったら済むの?」と言われたそうです。その友人はおそらく2015年末の「日韓合意」や、もっと遡れば「村山談話」などのことを思い浮かべて言われたのだと思われますが、「日韓合意」を納得しない「韓国挺身隊問題対策協議会」は安倍首相による直接の謝罪もなかったとして「真心がこもった謝罪と受け入れるのは難しい」と述べたと報道されています。日韓合意の声明文には「安倍内閣総理大臣は日本の内閣総理大臣として、慰安婦としてあまたの苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からのお詫びと反省の気持ちをお伝えします」と述べていますから、ここには真心からの謝罪が表明されていると感じられる方は少なくないと思われます。それにもかかわらず、ここには真心からの謝罪はないと感じさせるものが韓国人にはあるのはなぜでしょうか。それは単なる「作文」と感じられるからでしょう。つまり、慰安婦問題でごちゃごちゃするのはもういい加減にしたい、早く政治的に決着させたいという意向から、ここまで踏み込んで表現すれば認められるだろうという「計算」で、もっと強く言えば「打算」で、書き上がられていることが見え透いていると感じられるのだと思われます。「心から詫びたい」ではなく、「面倒くさいから早く終わらせたい」が本心であることが見て取れるのです。(悪さをして母親から詫びるよう言われた子供が、悪さそのものがどう悪いかを見つめようとはせずに、もういい加減に止めてほしくて「ごめんなさい」と言う場合と同様に見えるのです。)そしてそう見えるのは、安倍首相が合意に先立つ段階で村山談話を受け入れるのかとの記者団の問いに終始答えなかったり、合意後「挺身隊協議会」が手紙で謝罪してほしいと求めたのに対して「毛頭考えない」と国会で答弁しているからだと思われます。申し訳ないと心底から感じているなら、むしろどちらにも進んで積極的に応じるでしょうし、更に要求される以上のことをして証拠立てようと努めるでしょう。真心を証明する最善の道を考え出すはずです。それがまさに「真心」というものではないでしょうか。私が韓国で「みなさんが求めているのはお金ではなく、真心なのだと思います」と言ったところ、「そうだ!」という多数の強い声が一度ならず返って来ました。私には韓国と日本の立場が逆だった場合には、日本人は韓国に「真心からの謝罪」を執拗に要求することは間違いないと思えます。 [12]日本が韓国に誠実に謝罪したと韓国人自身がはっきりと認めることができるために、日本人は、また日本国の代表である総理大臣は、どうしたらよいか、具体的行為を、こちら側から進んで、真剣に考えて、実行することが求められているでしょう。(この会の私たちにも求められているでしょう。)それをせずに「謝罪した」と言い張ることは、韓国人には「真心からの」謝罪とは到底認めることができず、一層日本人の厚顔無恥を印象づけるでしょう。 ただ、総理大臣というものは一国を代表する立場の人ですから、国民の意思が一つになっていないときには、一方の側の意思表示をすることはできないという制約があります。ですから、総理大臣としてでなく、「一個人として」と断って行うことになる、或いはそれも難しいときには、総理を退いてからそうする、というようになるでしょうが。いずれにせよ、真心からの謝罪の気持ちがあるならば、道を探すはずです。さらにまた、国民の意思が一つになっていなくても、一国の首相として国民を「先導する」決意で謝罪する道はあるはずです。そういう首相は世界から尊敬を受けるでしょう。 なお、ここに記した意味で「誠心誠意」からの謝罪を行った記録として村岡崇光『私のヴィア・ドロローサ』(2014年、教文館)は特筆に値します。誠意ある日本人の必読の書でしょう。 [13] ここで加害者側の内部について述べることは、同様に被害者側の内部で意見が対立する場合にも、言えるはずです。 [14] このように相手の言い分を先に聴くというところに、アガペーのものさし「あなたが先に尊び愛しなさい」が働いています。 なお、ここに言う「まともにかかわる」ために真っ先に求められることは、そもそも相手と「出会う」ことでしょう。相手と直接会うにせよ、相手と電話や文通で“出会う”にせよ、まず相手とどうしたら話し合うことができるかを調べ、相手に最初の言葉をかけることが求められます。それを調べる作業はしばしば“八方手を尽くす”極めて複雑な、厄介なものとなりますが、だからといって、それを投げ出すなら、問題をも、相手をも、自分をも、――何ものも尊び愛していないでしょう。 [15] 私が相手と同じ境遇に生まれ、同じ教育を受け、同じ人間関係の中にあったなら、同じようにする可能性がある。――このことはキリスト教の深遠な教理、「原罪」の思想に私たちを導きます。原罪にまで思いを致すとき、それは謝罪者と謝罪者の両方を通底するのであり、真の謝罪と赦罪は等しく原罪を負う者同士が神の前に相抱き合って跪くという仕方でのみ成立するのだと思われます。 [16] 「神の国」を一挙に宇宙大の神の支配と考えることは問題でしょう。二人、三人でもアガペーで尊び愛し合うところに既に「神の統べ治め」は実現していると聖書は教えています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)