遠藤先生の謝罪訪問に対して、私の意見
遠藤先生の謝罪訪問に対して、私の意見
テモテ 姜 炯俊 (カン ヒョンジュン) Kang Hyung Joon 日本聖公会 松戸聖パウロ教会執事
先生が今回、わざわざ韓国まで訪れ謝罪訪問を行い、いろいろな活動を通してキリスト者の模範を見せていただいたことに誠に感謝の気持ちを持っている同時に尊敬を意を表したいと思っております。過去の記憶からの傷に苦しんでいる慰安婦の被害者の方々、そして日韓の問題の解決のために努力している様々な団体や個人の人びとに大きな慰めと力になったと思います。今回の訪問は先生が一生をかけて取り組んできた「アガペー」の実践だと私は理解していますし、そんな意味でただ学問だけではなく、それを自分の生活を通して実践する先生から私は真のキリスト者の姿を感じます。 ただひとつ、実は若者の世代に属する人として一つ考えさせられたことがあってそれをお伝えしたいと思います。先生が韓国でなさった活動に反対する訳ではありませんが、あくまでも今の時代を生きている若者のキリスト者としての意見としてどうか、耳を貸してくださればと思っております。 考えさせられたことは「自分に厳しい目を向ける(しっかりと日本の過去の罪責に責任意識を持つ)日本人こそ真の愛国者」という先生の言葉でした。なぜここに引っかかったのかと言いますと私が日本に来て色々なキリスト者と会って話した経験上、少なくとも若者のキリスト者の中では圧倒的に「過去の出来事は大変痛ましいことだが、私がそのようなことをした訳ではないので私が謝ることはできない」という立場の方が多かったからです。ある教区で正義と平和の実現のために情熱的に働いている若者の社会的な聖職の方さえそのような意見を持っていました。 正直に私は最初かなり衝撃を受けました。カルチャーショックがあったからです。私は韓国で常に「韓国民族=私」と考えるように教育を受けました。韓国民族の喜びは私の喜び、韓国民族の痛みは私の痛み、私は韓国民族のために生き、生涯を献げるべきであると教えられました。(念のため、言いますとこれは特にキリスト教で教えられたことではなく、韓国特有の儒教文化の影響であると思っています。) 民族を自分と同一化する教育を受けてきた私としては、国の問題と自分を同一化しない考え方が理解できませんでした。韓国の考え方によると民族の過去の痛みも罪と自分の痛みと罪になるからです。 しかし、日本にきて神学校で勉学し、宣教・牧会に取り組んでいきながらむしろこのように国の問題と自分を同一化しない考え方こそキリスト教的に価値があるのではないかと感じたところがあります。 私は国籍上韓国人です。そして先生を含め、私が接する方のほとんどは国籍上日本人の方です。しかし、それが私が先生を含め、日本人の皆様と交わりを持ち、神のみ国を実現していくのに何の妨げもなっていません。キリスト教は国籍も文化も含めあらゆる違いを乗り越え、同じイエス・キリストの体と血を分かち合うということで一つになれるということに価値があるからです。「国籍が違っても文化が違っても、性別が違っても言葉が違っても、同じ三位一体を告白し、同じ洗礼を受け同じ聖餐を分かち合っているなら兄弟姉妹に慣れる。」正にキリスト教の中に実は国籍とか文化はあまり関係ないことであると私は感じています。 自分が生まれた国、育った国、今住んでいる国は大切です。しかし、だからと言って「自分のナショナリティーはこれだ!」ということにこだわる必要はあるでしょうか。私も先生も人間が造った警戒線と文化によって違いがあるだけで、実は神の中で一つの家族ではないでしょうか。 私は神学校を卒業する時点で「自分が韓国人である。」という意識を完全に捨てました。ただ書類上韓国人であるだけです。だからと言って日本人になろうとしている訳でもありません。今まで自分が教わって身に付いた韓国人の意識から解放され、キリスト者の目として客観的に日本と韓国を見ることができるようになったのです。私は韓国人でも日本人でもなく、韓国の文化を背景に持って日本で神のみ国のために働いている一人のキリスト者です。 私の周りの若者は皆ではないですがほとんどの場合、過去の日本の罪責に自分も責任があるとは考えていません。しかし、私はそれでいいと考えるようになりました。「日本人」というアイデンティティから自由になるという意味ではです。どうせ、国籍とか文化とかは人間が作り上げたものに過ぎなく、神の前では皆が同じであれば、「韓国人」とか「日本人」とか「過去の歴史」とかを自分の問題化する必要はどこにあるのでしょうか。過去の痛ましい出来事はしっかり受け止め、しかしその過去にこだわらないで(現在の自分の問題化しないで)、二度とその痛ましい出来事がないようにし協力し合っていく。私は少なくともこれが今から両国の未来を作っていく若者に必要な姿勢ではないかと思います。 私は韓国の若者のキリスト者に会う度に「日本人に罪責を求めないように」教えます。基本的に国と自分の関係に対する考え方が違うのと、建設的に両国のキリスト者が神のみ国の成就のためには「過去の歴史にこだわらない」という姿勢が必要だと感じているからです。それと同時に「韓国人」というアイデンティティから自由になるように進めます。そうなったとき日韓の問題を更に客観的に見ることができるようになるからです。 「今、現在日韓の問題で苦しんでいる方がいらっしゃるんじゃないか。」という意見もあると思います。その通りです。元慰安婦の方々やヘイト・スピーチなどで苦しんでいる方々を考えると腸が千切れるような痛みを感じます。今苦しんでいる方のために闘っている人たちの働きを否定しているわけではありません。対象をはっきりとしましょうということです。批判するべき対象は元慰安婦の方からみると日本の政府、ヘイト・スピーチの被害者からみると極右団体です。私たちはその方々の痛みのために共に闘うべきです。しかし、同じ「日本人」ということだけで韓国は日本全体に責任を求めてはいけないし、日本人皆が責任を感じる必要はないということです。国の枠というのは将来的には神のみ国で無くなるべきものだからです。先生も慰安婦の方に謝罪なさったとき、一人の方から「私たちは安倍総理から謝罪の言葉を聞きたいわけです。あなたではありません」と言われたではないですか。もしかしたらそれは一種の神のみ言葉ではなかったでしょうか。 私の祖父は戦争の時、北海道の炭坑労働者でした。強制だったのか、募集に応じて行ったのかは聞いていませんが、死ぬほど苦労したが一銭も労働の対価をもらえずに命だけ助かって韓国に帰って来たと聞いています。私の父は祖父からその苦労話をいつも聞いていましたので今も日本に対していい感情を持っていません。しかし、だからと言って私もいつも祖父の痛みの記憶を持って日本の皆さんに接しなければならないのでしょうか。いつもその痛みを持って「この人たちと同じ民族が私の祖父に苦労をさせた」と考え続けなければならないのでしょうか。その状態でまともに日本の皆さんと神のみ国を建てるために努力していくことができるでしょうか。 私の祖父は日本からも当時の企業からも何のお詫びの言葉を聞かずに世を去りました。しかし、私は祖父の痛みの補償を日本人の誰一人にも求めたいとは思っていません。確かに祖父の記憶は痛ましいが私はその痛みからも解放され、韓国の痛みからも解放された一人のキリスト者だからです。ただ祖父のように当時苦しんでいた朝鮮人炭坑労働者がたくさんいたということを覚えていただければ、それで十分だと思っています。そして祖父の痛みにこだわらないで日本に住んでいる皆と共に神のみ国の成就のため働いていくつもりです。 私たち若者のキリスト者にはもはや国も人種も性別も文化も性的指向すらも問題ではありません。全ての分け隔ての壁を乗り越えて真の神のみ国をこの世に実現していきたいと思います。「日本人」と「韓国人」の境を乗り越え、真のキリストの中での一つになるために、「過去の記憶」もある意味では乗り越えなければならない障害物であると感じております。 若者に過ぎない私がこのように長文の感想を送ることを誠に恐縮に感じておりますが、今日本と韓国の若者がどのような考え方を持っているのかを伝えることが先生の今後の活動にも役に立つと思い、このように書きました。もし言葉が多少強い印象をお受けでしたら誠に申し訳なく思います。いつか先生とこの主題でもっと具体的な話ができればなと思っております。 主に在って